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えんとつ町のプペルブレンドをフルデザインパッケージにして販売したい!

現在販売中の”えんとつ町のプペルBlend"ドリップ珈琲を若手デザイナーと組みフルパッケージ化。 売上の一部を絵本”えんとつ町のプペル”をに変え、児童施設・障害者施設・老人ホームに自分の手で届けたい!

現在の支援総額

151,000

116%

目標金額は130,000円

支援者数

44

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2018/02/23に募集を開始し、 44人の支援により 151,000円の資金を集め、 2018/05/12に募集を終了しました

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えんとつ町のプペルブレンドをフルデザインパッケージにして販売したい!

現在の支援総額

151,000

116%達成

終了

目標金額130,000

支援者数44

このプロジェクトは、2018/02/23に募集を開始し、 44人の支援により 151,000円の資金を集め、 2018/05/12に募集を終了しました

現在販売中の”えんとつ町のプペルBlend"ドリップ珈琲を若手デザイナーと組みフルパッケージ化。 売上の一部を絵本”えんとつ町のプペル”をに変え、児童施設・障害者施設・老人ホームに自分の手で届けたい!

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珈琲倶楽部 田 店主 の永塚と申します。

クラウドファンディングをさせて頂いておりますが、私の自己紹介を忘れており申し訳ございません。

長くなります。一応話せる事書いていこうと思います。

 

 

小学校〜中学時代

まず最初にカミングアウトしますと、私の実家は当時遊技場を経営してました。

ただその後倒産します、それもかなりのド派手な(笑)

 

中学2年の頃に当時はBOOWYというバンドが流行っており、そのコピーバンドをするメンバーから加入しないかと誘われ、一番最後に入ったから人気のなかったドラムに(笑)。

当時はインターネットもなかった時代、バンドをしている人も少なく音楽番組でアイドルが歌っている後ろで演奏をするバックバンドの演奏を見て練習をしました。

とにかくメンバーと集まってワイワイしてることが楽しい、そんなひとときでした。

おそらく当時の目的の大半は男子校、思春期だったこともあり、モテたかった(笑)

だから練習をしまくってました。後は仲間との間に差が出てしまわないよう必死でした。

そんなこともあり、中3で初のワンマンライブを開催、無事成功をおさめました。

(ただ女の子とにはモテなかったです。。)

 

高校時代

高校になりバンドメンバーも変わり出し、音楽ジャンルもお互い変わっていきます。

私とギターは小学校からの仲で不思議と彼と演奏をしていると彼のアドリブの流れが直ぐに分かりました。今もって彼以上のギタリストは私の中ではいないと思ってます。

そして、彼との別れが私の音楽の道を諦めた理由かもしれません。

彼との連絡は10年前から途切れてしまってます、アメリカに旅立った後連絡が途絶えました。

高校2年の時、私たちはヘビーメタルと言われる(X-jAPANなど)ジャンルに変更。

吉祥寺でライブをした際にたまたまいた音楽プロデューサーから、引き抜きのお話を頂きましたが、私とギターの2人だけと言われ、当時はまだ仲間意識全開だったので即答で断りました。

 

今ならどうたっただろう。。

 

大学時代

ここでギターとは別の道を進みます。私は進学、ギターはプロのギタリストへと進みます。

既に音楽から一瞬抜けた自分はどうしようか悩んでました。

同級生から半ば強引に音楽サークルに入れさせられたような感じで入部。

このサークルは人間性としては縦社会ではあるけど、バンドに関しては実力社会のような場所でもありました。中学、高校と毎日365日ドラムを1時間練習していたのが身を結び新入生歓迎ライブ(当時私達の歓迎用の先輩が主催してくれるライブ)から私はありがたいことにメンバーとして1バンドからお誘いを頂き、その後4年間卒業するまで全てのライブに参加できました。

このサークルの面白いのは一回のライブごとにメンバーを変える事、つまり自由なんです。

これが救われたんだと思います。ある程度は経験値のストックでやっていける、みたいな。

 この4年間で私は一切の成長をしませんでした。蓄積を崩しながらの4年間という感じです。ですが、あの4年間のライブはでも面白かった。1回のライブでだいたい6バンド位が演奏しますが当時ドラムが少ないという事情もあったのですが、最高で私6バンド中4バンド叩いたりしてました(笑)なのでほとんど座りっぱなし、とか。

今ではできないですが、よく譜面も読めない自分が4バンド分(1バンド7曲くらいなので28曲)も覚えられたなと(笑)。

 

大学1年頃に私の実家の事業が倒産 当時ニュースにも出るくらいの倒産でした。

それによってほとんど夜逃げ状態で家族はバラバラになります。

あの時は悲しさというよりかは何かイベント的な感じでしたが、あの時の記憶は未だ心に残っているようです。一度家を出て1週間位した時に日中こっそりと家に行ったんです。

1階の鍵開けるのはできなかったので、2階の窓の非常口から入って。

その時の住人のいなくなった家の姿に、自分の部屋にいるのに自分がいた跡がないんです。

廃墟と言った方が良いんでしょう。

 

私は母の実家に居候の身に、母と祖母は都内のマンションを借り、父は消息不明となります。

私は当時大学を辞めるつもりでしたが母に説得され大学を継続する事になりました。

数ヶ月居候していましたが、やはり気をつかうことに疲れてしまい、一人暮らしをするためにまた八王子に戻ります。

当時の私はバイトを笑う位にしていました。週6回又は7回 朝は五時から夜〇時まで

1日に2個又は3個のバイトを掛け持ちしてました。

当時のバイトはこんな感じ

朝5時 壁貼りのバイト

12時 自転車の部品を配送・納品・陳列

17時 遊技場のバイト

 

これが大体週に6回あって、それ以外にイベント屋のバイト、車の整備のバイトもしてました。

 

ここまで書くと苦労人と思われるかもしれませんが、当時実はかなり楽しかったんです。

幼少時代〜大学1年まで何不自由も無い生活、むしろかなり生活は豊かでした。バイトは禁止、今では信じられないと思いますが、私ジーパンも履けなかったんです(笑)

旅行などもかなり行ったりなどもしていましたが、ある意味窮屈でもありました。

だからバイトできる事は楽しかった、今でもそう思っています。

私は人に恵まれていて、当時苦しいと言われた時に、八王子で車の整備をしていた方と知り合い親以上に厳しく教えて頂きました。

その親方が壁貼りの仕事などもされるので、私は弟子のような形で付いて回っていました。

なので車の整備などもお手伝いしていました。

その経験は今でも大切な経験だと思っています。

幼少時にスキーもやっていたので資格などもあり、大学時代はインストラクターなどのバイトもしたりしてました。

就職

大学3年からバイトをしていた遊技場の社長から誘われ、一応大学卒扱いという形で

就職をします。この当時はもう生活はメチャクチャでした。

一応私は学生時代の経験もある事から就職後半年で幹部候補となりましたが、名前で言うだけなら凄い偉そうですが、実情はほぼ奴隷状態(笑)。

上司と必ずどんな時も一緒にいる日々だったので、朝八時から夜は三時まで仕事をし、

そのまま飲み屋に拉致され、朝八時に解放。八時半からまた仕事、そんなのが当たり前の生活でした。私のいた遊技場はとにかく全てを自前でやるのが当然だったので、機械の整備とか設置なども全て専用の業者ではなく、一部の幹部のみが行う店でした。

なので、労働量も半端なかったですが、でも達成感もかなりありました。

 

再就職

25歳の時にある事件に巻き込まれてしまい(これはさすがに公表できません)、

退社します。しかし、その事件の前年から叔父(父の弟)は元から身体が弱く

子供もいなかった事もあり事業(現在私が経営するお店)の継承者がいない事から

私に入社するように勧められてました。しかし、私は親族の所で働く事に抵抗があるので拒否し続けていましたが、そういう事件もありタイミングなどもあり入ることになりました。

実は遊技場を退社後半年はスキーのインストラクターとして働くつもりでしたが、叔父が既に入社を決めてしまったこともありその夢もなくなったという事もありました(笑)

そこから私はコーヒー業界に入る事になります。

遊技場では窃盗や不正利用、逮捕されるような方なども常にいる環境です。身もかなり削るような感じで日々を過ごしてました。お金が左右するギャンブルの仕事、やはり従業員同士でも自分の立場を常に落とそうとする者もいます。なので精神的にもかなりピリピリした毎日でした。逆にそれに慣れていたので、喫茶という仕事はあまりにも変化がなく、当時はとにかく遊技場に戻りたかったです。それが諦める気持ちになったのは当時私がお世話になっていた遊技場での上司でした。

戻ろうと思い、喫茶店の私の休みの日、遊技場に行き上司に話掛けようと行った所、

完全に無視され一言言われました

”お前が戻る場所ではない”と。

就職してからは車屋の親方とは事情があり疎遠となってしまい、その代わりというのは例えが悪いですが上司が私の父のような存在でした。

その上司に散々仕事後の飲みの際などに言われ、当時はうるさいとしか思わなかった言葉は、今の私の支えでもあり、今うちのお店では必ず伝える言葉になっています。

”自分の今の立場は ”客” ”お客” ”お客さん” ”お客様” どう思っているのか?”

この言葉は私にとって一生の言葉です。

サービス業においての自分とお客様の立ち位置をしっかりと考える、という事です。

 

学生時代後半からずっとバイトなどもしていたので、喫茶店に入社してから

自分の趣味などの時間が増えました。

・テニス

・草野球チームを作りたかったのでネットでメンバー集め

・バンド

その中でもう一度バンドをしたのは何となくやってみたかったから。

でもいろいろなご縁などもあり仕事の合間に音楽の仕事などを頂いたりしていましたが、

理由は言いませんが20代の終わりに音楽の道は完全に諦めました。 

 

 30代になりそういう関連もしなくなり、30代の終わり2010年に叔父が他界します。

嘘いつわりなく言いますが、叔父が存命の時は自分は叔父の手のような動きでした。

自分がしたいことがあっても自由にはできない。そういうのもあり、喫茶という仕事に

充実感を抱いていませんでした。

しかし叔父が他界してから自分の意思で全てを決めないといけなくなってから

いろいろと変わってきました。

2011年東日本大震災

2012年 出店していた百貨店が八王子から撤退

 

実は叔父が他界した際、大きな事件が発生します。ここも話せる内容ではないのですが、裁判をしました。ここでもかなりの精神を削られました。。

 

40代になり、お客様とカウンターで話す事などが楽しくなってきます。

そうなってくるといろいろな刺激が私の中に入ってきます。

本来思いついたら行動、という性格。

こんな事をやったりしました。

 

  ・コーヒーお線香の販売

  ・プリザブドフラワーをギフトに入れる

  ・コーヒーのギフト=茶色という考えを変えていく

  ・飲食メニューにお蕎麦を取り入れる

 

 思いつきだけではなく、そんな物はコーヒー屋さんから出てくるとは思わないよね?

そこで驚く顔、そして笑顔が出る事、それが嬉しくなってきたのです。

なので、その時からうちのお店の経営理念はこうなりました

  ”笑顔創造業”

 

それだけでは足りずに紹介もあり、粘土細工の職人の資格も持ってます(笑)

まさか粘土細工をいれるコーヒー屋さんなんて思わないですよね?

だから面白いんです。

 

3年前に難病と言われている病気になりそれ以降は活動が制限されていますが、大分現在は回復しており業務もできるようになってきていて、今はほぼ毎日お店にいます(笑)

音楽も2年前から趣味として再開しました。

そして音楽が持つ”人に勇気を与えてくれる力”を自分のお店に来られているお客様にも届けたくてミュージシャンを紹介頂き、お店で月に1回ライブをお願いしてもらっています。

 

そして、昨年の8月に知人の紹介からもあり、絵本をお店に取り入れています。

その中から今回のクラウドファンディングをするきっかけとなった西野亮廣さんの

プペルにも巡り会えたわけです。

プペルの絵本は個人的に好きな内容、イラストで今回のクラウドファンディングはその個人的な好きな部分からスタートしました。

 

現在では自分がインスタから見つけた絵本作家さんやご紹介などを頂いた方にお願いしたりして個展をお店で開催しています。

絵本だけではなく、アーティストと言われる方全員対象です。

絵本には癒しや勇気、考えさせてくれる力があります。

それ以外に手作りで作品を出させれる方には大きなメッセージなどが作品に込められています。

私はそれをたくさんの方に感じてもらいたい、そう思い、今個展スペースとして

お店の中央のテーブルを無料開催、販売も中間マージン0で行っています。

お店としてもたくさんの刺激をいただけ、アーティストの方も自分たちの作品を多くの方に見てもらえる機会となり、互いにWIN×WINの関係になります。

 

音楽、絵本、芸術関連には全て勇気や力を与えてくれます。

私の商売はコーヒーを通してほっとする気持ちを作ること。

それを今ドリップとして作り上げ、西野さんの作品をお借りして癒し部分を加えて

新しい作品を作ろうと思っています。

こういう考えを日々しているこの商売が今は楽しい、そう思ってます。

 

長々となりましたが、私はこんな感じの人生を歩んできて今のクラウドファンディングへとつながっております。

波乱万丈の人生を自慢している訳でもお涙頂戴的でもありません。

まずは私を知っておいてもらった方が良いと思っての投稿です。

 

 

 

 

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