残り10日になりましたが、支援が停滞しました。クラウドファンディングの典型的なパターンなのでしょうね。ラストスパートとといってもできることもないので、成り行きにまかせます。
ところで、1990年代初めから各大学では「大学院重点化」ということが行われています。大学における教員のポストが増えるわけでもないのに、なぜ研究者を養成する大学院を強化していったのでしょうか。いろいろな理由があるようですが、酒井敏『野蛮な大学論』(光文社新書、2021年)に興味深い見解がありました。
酒井氏によると、博士を増やしてもポストがあるわけではないので、研究者の養成が目的であったはずはないといいます。実際、文部科学省が掲げていた大義名分は国民の「生涯学習」の促進であったということです。しかし、生涯学習として大学院を修了した人たちはどこに行くのでしょうか。それはやはり企業しかありません。アメリカ等では、博士号を持つ人たちが好待遇で企業に迎え入れられることがあり、文部科学省には、日本にもそういう企業文化が広まることへの期待があったのではないかといいます。
酒井氏は、福利厚生の一環で従業員を大学に送り込むことも提言します。ただしその場合、「会社の研究開発に役立つ知識を仕入れてこい」といった具体的な目的を決めないほうがよいといいます。比喩的表現を用いて、大学院で身につけるのは「筋肉」ではなく「脂肪」であるといい、大学院を保養施設と同じように利用させるとよいと提言します。
これは、藤原正彦氏の考えと共通するところがあります。『国家の品格』(新潮新書、2005年)でも、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけるとよいといいます。そうした教養を背景に、圧倒的な大局観や総合的な判断力を持つことを提言しています。
大学院に行ったからといって年収が上がるわけではありません。今回、博士号を取得しても会社から手当てが出るわけでも、給与が上がるわけでもありません。「よくやりましたね」というくらいでしょうか。悪ければ、よっぽど暇だったとでも思われるかもしれません。ですから、大学院と経済的な豊かさは、必ずしも連動しないといことです。ただ、研究テーマが自分の仕事に関するものであれば、自分の仕事は楽になるし、収入の複線化も可能になります。じわじわとその可能性が広がり、将来の選択肢も広がることでしょう。