2023/11/04 16:27

No.9

 写真展と重なって、ベルリンフィルの来日公演が行われる。指揮者は、キリル・ペトレンコ。ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して話題となった沖澤のどかさんは、彼のアシスタントを2年ほど務めたが、そのときの様子について語った動画をYouTubeで見た。「命を削って指揮をしてるとしか思えない」と語った言葉が印象的だった。

 そうとしか思えない作品に出合うことがある。もちろん、その作品制作中あるいは制作直後に亡くなるケースでは、「絶筆」「白鳥の歌」と称されたりするから、間違いなく、命を削ったことになるだろう。しかし、それだけでなく、その人の作品全体を通じて感じられることもある。

 さて、ブルックナーとゴッホの共通点について論じられた文章など見たことがない。作曲家と画家だから、直接的な比較対照の組み合わせにはならないだろう。しかし、ブルックナーが30歳上とはいえ、同時代を生きた二人だった。ゴッホは1890年に37歳で亡くなり、ブルックナーはその6年後に没している。

 ブルックナーは12歳で父親を亡くし、聖フローリアン修道院へ寄宿生として入学した。後に教会オルガニストになったブルックナーは、多くの宗教曲を作曲し、40歳頃から交響曲の作曲を始めるが、なかなか世間に認められなかった。交響曲の初演が大成功したのは、第7番に到ってのこと。60歳になってからのことだった。

 ゴッホは、牧師の家に生まれ、聖職者を志したが挫折し、本格的に絵を描いたのは10年余り、現在私たちが目にする彼の代表作は、南フランスに移り住んだ最後の2年間くらいに描かれたものばかりである。生前に売れた絵は1枚だけだった。

 生前の二人は、今日ほどの名声を得ていない。不遇の時代が長かった。ゴッホは、ずっと不遇だったと言える。二人とも少し常軌を逸するような行動があったのは、とても純粋な心を持っていたからではないだろうか。彼らは人の役に立ちたいと願っていた。彼らは神に仕えた芸術家だったと思う。

 ゴッホ最晩年に描かれた「烏の群れ飛ぶ麦畑」は、最も好きな絵だ。初めて日本にやってきた20年以上前、安田火災東郷青児美術館(現在の損保美術館)へ観に行った。

 この嵐を孕んだような暗い空と黄金色の麦畑。三方に分かれる赤い道と黒い烏の群れ。非常に象徴的なものを感じさせるが、人によっては、この後にゴッホを待ち受ける運命を予兆するような不吉な影を見るかも知れない。しかし、私は、この暗い絵に不安や畏れを抱きつつも、それだけに終わらないものを感じる。やがて雲が割れ、一筋の光が射しこむような気がしてならない。

 ブルックナーは交響曲第8番を完成後、すぐに第9番の作曲に着手したが、病状は次第に悪化していった。そのためヴェルヴェデーレ宮殿(ウィーン)管理人宿舎の一室をあてがわれ、そこで亡くなるまで作曲を続けたが、第4楽章コーダ手前で力尽き、未完のままに終わった。

ブルックナーが最晩年を過ごした部屋。壁にはレリーフがかけられている。1990年、現地にて撮影。

 この9番は完成した第3楽章までで演奏されることが一般的であるが、ひとことで言うと、非常に「厳しい」音楽となっている。第1楽章は、ニ短調で始まるものの、やがて調性は不安定になって拡大し、不協和音が連続する。いつものような旋律が出てこない。もう、別世界の音楽になっているとしか言いようがなく、どこへ連れていかれるのか恐ろしくなる。第2楽章、第3楽章へ進むと、もはや調性が意味をなさなくなり、宇宙の中に放り出されるが、終結部に到達して初めて…すでに光の中へ入っていることに気づく。そんな音楽。

 ブルックナーは第9番の献辞として、Dem lieben Gott(愛する神に)と記した。交響曲を神に捧げた作曲家は、世界にただひとりだけである。

 ゴッホの「烏の群れ飛ぶ麦畑」とブルックナーの「交響曲第9番」は、私の中でイメージが重なる。あの麦畑の中に人影が見えるようにすら思う。命を削って作られた作品。聖書の「アルファでありオメガである」という言葉を成就したような作品だと思う。

 私のNo.9という作品は、この両作品からインスパイアされて生まれた。もちろん、意図してではない。偶然、そんなシーンに出合い、幸運にも写しとめることができただけである。私も、命を削って作品を創ることにためらいはない。


 No.9については、第5回の活動報告でも少し触れ、YouTube動画を紹介しています。今回の記事は、その動画を補完するものですから、動画をご覧になっていない方は、ご覧いただけると、より分かりやすいかも知れません。もう一度、リンクを貼っておきます。

https://youtu.be/C3VS9RM5ryE