なぜ、奈良県のスイカを素材としたのか、ちょっと疑問に思われるかもしれません。
そこで、今回は奈良県のスイカについて、お話をさせていただきます。
1867年、奈良県天理市の巽権治郎氏が愛知県一色町から種子50粒を持ち帰り、「権治」と呼ばれるスイカが栽培されるようになりました。1868年には県内の二階堂村や三宅村等で「紀州西瓜」や「黒皮」と呼ばれるスイカの栽培が始まりました。1902年現奈良県農業研究開発センターでアメリカ・カリフォルニア大学から「アイスクリーム」という品種が導入され栽培の試験を実施しました。また多くの品種を集めて比較試験を行った結果、本品種の優秀性が確認されたので生産者に種子を配布し、栽培を奨励されるようになりました。この「アイスクリーム」と「紀州西瓜」や「黒皮」が自然交配し、選抜淘汰されたものが「大和西瓜」と呼ばれるようになりました。
その後、品種改良が重ねられた結果,奈良県におけるスイカの栽培面積は急激に伸び、1913年には112haであったのが、5年後には715ha、10年後には10倍以上の1315haに達しています。しかし1931年には満州事変、1941年12月には第二次世界大戦が始まり、国民の生活は戦時統制経済下に置かれたため、国は主食の生産を至上命令とする農業生産統制令を公布し、スイカの作付けが禁止されました。
奈良県におけるスイカの栽培面積の推移
戦後、奈良県は1960年代初めまでは全国有数のスイカ生産地でしたが、輸送手段の発達によって生産規模の大きな熊本県、千葉県、山形県などに産地が移っていきました。奈良県における主要農産物ではなくなったスイカは、現奈良県農業研究開発センターにおいて採種が1965年に打ち切られ、種子は長らく缶詰で保存されてきましたが、近年は遺伝資源としての重要性が見直され、2016年から種子の更新が再開されています。
そこで、スイカの育種は奈良県下の種苗会社で大きく発展していきました。2016年、日本種苗協会奈良支部に所属する35社の大半は、スイカ栽培の精農家や篤農家が起業した会社であり、それぞれが創意工夫によって独自の優良な品種を育成しており、現在スイカの種子供給における奈良県の全国シェアは、田原本町の萩原農場が約6割、奈良県内のその他種苗会社を合わせると8~9割に達しています。
そのため、現在奈良県はスイカ種子の産地として大きな役割を担っていますが、そのことを知る人は奈良県内及び全国でも少なく、スイカに対する奈良県の知名度は低い状況です。しかし全国の種子を奈良県が賄っていることを考えると、奈良県においてスイカは重要な農産物だと考えられます。
この様な状況ですが、スイカ栽培における課題点も存在します。その一つは摘果果実の扱いです。一個のスイカを美味しく成熟させるには、余分な果実の摘み取り(摘果)が必要であり、この摘果されたスイカは、未成熟なため通常はそのまま廃棄されます。美味しい成熟したスイカを栽培するには、一株あたり1~2個の成熟したスイカにする必要あり、そのためには一株あたり5~6個の未成熟なスイカを摘果する必要があります。結果、1個の成熟したスイカのためにその5~6倍の未成熟な果実が摘果され廃棄されることになり、その摘果後の果実を廃棄するためには大きな労力、コストが必要となり、また廃棄果実による環境汚染などを含め環境への負荷が問題となっており、持続可能性への取り組みが課題として存在しています。
これは、奈良県だけでなく全国のスイカ農業に関して言える事実です。
摘果され廃棄されたスイカが転がっている様子
また奈良県独自のスイカ栽培における問題点もあります。種子採取用のスイカ栽培においては、種子を採取する際、スイカの果肉は掻きだされそのまま廃棄されるので、実にスイカの果実のほとんどの部分が廃棄されるという持続可能性に対する大きな課題点が存在します。
このように奈良県はスイカにおいて重要な地域であり、このような地域から全国的に収穫が減少しているスイカに対する取り組みの発端や、奈良県をアピールする素材の一つとしてスイカを見直し、違った視点で価値を見出す必要があると思います。
また、今まで廃棄されていた未利用資源に手を加え、新たな価値を生み出し、別の高付加価値な製品として生まれ変わるアップサイクルへの検討も、今後考えていきたいです。
参考資料
1)作物研究 62:2017 p.51-55
「奈良県農業研究開発センターの120年の歴史と現在」
2)農林水産省「作物統計」
3)https://www.nantokanko.jp/tokushu/19386.html
「スイカに魅せられた奈良人たち(前編)」