とうとうエピソードシリーズも10回目を迎えました。
ここまでくると、もはや意味不明になってきたかもしれません。
エピソードって。。。
きづいたら個人的な話で保育園まで、さかのぼりはじめられても。。。
ただ、どうしても出発前までに御共有させていただきたい旨でもあり、
もしご興味がある方が一人でもいれば書き続けようと更新を続けております。
今回は前回より転じ【踊り】の本質に触れた体験のお話です。
僕は、もともと鎌倉市笛田にあります児童障がい者施設出身者です。
このことはあまり公にしていないのですが事実ですし、もういいかと感じ赤裸裸に書きます。
というのも、施設に通っていた理由は[言葉がうまく話せなかった]からの理由で、いわゆる言語障害という分類で考えられていた保育園児でした。
保育園の帰り、施設に寄って帰る。
そもそも、なぜ言葉が必要なかったのか。
それは、言葉を超えた「美」が生活にあったからでした。
くせーよ。。って本当なので、もう正直に書き残そう。
母の車で藤沢から帰る道のり、ちょうど桟橋をブーンと渡る時に
Keith Jarretの[TheMelodyAtNightWithYou]というアルバムの
[Shenandoh]という曲が流れていたのですが。
その最高にマックス最高潮のときに、橋から見える光景が。。。
美しすぎた。
川から照り返す、夕日の陽。
空がパステルカラーにオレンジ色。
時に湘南でおこるパステルカラーミラクルノスタルジックサンセット。
フリーダムサンセット、SHIBAサン。最高にオススメな江ノ島のイベントです。
話はそれましたが、その光景にKeithのShenandohが、やばすぎた。
保育園児の僕はフルフル感動し分けも分からず涙がこみ上げてきたとき。
ふと、横を見たら、母ちゃんが泣いていた。
この涙は、いわゆる「悲しい」とか「辛い」の分類ではない涙。
この涙は、「美しさ」のため流れた美しい涙だなー。
と子供ながらにも感じ、同時に。
音楽が日常に、圧倒的な効果で色彩を増やしてくれる。
という真実を知ったときでした。
僕が、「言葉」の必要性を超えた瞬間の初めての体験でした。
今、思えば、あの瞬間。
いわゆる「リアル」な「ジブリ」感。。。
んー、、、その車のイメージは、限りなく崖の上のポニョの、ソウスケが母ちゃんすげーなーと助手席に座っているイメージ。
わかりづらいか。。。
ともあれ、踊りを踊る使命を感じた時であったと今は振り返ります。
いわゆる、色彩を濃くした現実を生む音楽をもって身体表現する意味。
音が日常の色をより鮮明にしてくれる。
その美しい絵の中で、より世界観を増幅させるため、ストイックな在り方で
身体表現をなす。
その身体は、誰よりも研ぎすまされていないとならない。
その研ぎすまされた刀が、夕日の陽を受けたとき。
どのような反射を映すのか。
その反射光は、美しいのか。
それとも、さして美しくないのか。
刀が鈍っていたら、光は鈍い。
刀が研ぎすまされていたら、光は美しく映えるだろう。
踊りで「リアルジブリ」を体現すること。
ジブリ世代なら共通して学んでいること。
日常がリアル。
今この瞬間、刹那に生きることがリアルなドラマを生む。
その生活こそが人生の色彩をより濃厚としてくれる一点となりえる。
その可能性に胸をトキめかせた瞬間。
それが、その桟橋を渡る瞬間の夕日であったと感じる。
そこから順調に施設も通い、無事に小学校も通い始め
ちょうど5年前見てしまったビデオの中で自覚症状がなかった事実を知ることになる。
それは俺が小学生ぐらいか。。。あれは。。。たぶん。
兄と弟が3ちゃんの曲で踊り狂っているとき
次男でいるおれは、ウチワをもって止まっている。
ただ静止している。
そして、時に黒目だけ動かし
少しウチワを手だけで動かし、とまる。
そして、また少し動いて、カクっと止まる。。
おれは5年前、たまたま見た親父が残したビデオテープという映像データをテーププレイヤーを再生しテレビでみたとき。
身が震えた。
俺、こんときから無意識に
止まってんじゃん。
というか、ロボットダンス。
超えては、ウチワ?
もはや、能か。。?
いわゆる言葉を超えたコミュニケーションとして身体表現にすでに身を投じていた事実をダンスを本格的に初めて14年後の5年前、初めて知ることになりました。
そこから、いわゆる言葉を超えた世界共通言語としての「踊り」をすでに自分が体現していることを知ります。
いわゆる、子供は全て知っている。
かつてのピカソではありませんが、子供時代が一番やべー表現しているという衝撃を受けます。
ただ、、、
ただ、、、、!
しかし、子供時代に戻ればいいってもんじゃない。
なんなら、俺の今のライバルは小学校4年生、伊豆の「響」です。
大人のヤバさもあることを信じたい。
子供と遊ぶとき、一本歯の共有は大人であることを少しは良かったなとアーティストとして思う瞬間です。
しかしながら数時間後には余裕で子供の彼らも一本歯で歩いてるんだけど。。
結果的にいうと、子供たちのほうが凄いです。
というか、それで良いのだと最近思うし、というか次世代として世代を超えて行くのは当然であるし、そうであってほしいと切に願います。
そういう意味で今回の歩んで舞るは子供たちにより多く伝えたいって大分話それました。
すみません。
ともかく、踊りの本質の共有です。
踊りの本質其の一
【 踊りは言葉を超えた世界共通言語である。 】
です。
そこから施設でのパフォーマンス時におきたドラマに、ようやく繋がります。
相も変わらず脱線すること多々知れず。。。
大変、申し訳ありませんが一文も無意味は無く意味は無いなんてことも感じつつ更新してまいりますので
引き続き、どうぞ何卒宜しくお願い致します。
つづく。
一舞一生 -one step ,one life -
小畑 ‘OBA’ 大左衛門
【歩んで舞る】特設サイト
http://otona.be/ayundemairu/