自画像です 2023年作 F4号 油彩
自己紹介増田 正昭 絵画関係のプロフィール
1952年 広島市で生まれる(被爆2世)
2002年 うつ病患いリハビリ兼ねて絵を描き始める、絵画教室などで学ぶ
2007年 新美公募展 出品数点 以降 毎年数点出品
2008年 新美会員展 出品数点 以降 毎年数点出品
2008年 反核 平和のための小品展 出品数点 以降 毎年数点出品
2010年 日本・コリア友好美術展 出品数点 以降 毎年数点出品
2010年 京都造形芸術大学通信教育部洋画コース 入学
2012年 関西美術院展 出品数点 以降 毎年数点出品
2012年 汎具象展 入選
2013年 3.11 miniature ART 出品 2016年度まで毎年出品
2015年 京都芸術大学通信教育課程卒業生・修了生 全国公募展入選
2015年 大阪クラブOBG絵画展出品 以降 毎年出品 2015年 京都造形芸術大学通信教育部大学院 入学
2015年 臨床美術士4級取得
2016年 庭石会 出品 以降 毎年出品
2016年 京都「被爆二世、三世の会」世話人 に
2017年 京都芸術大学通信教育課程卒業生・修了生全国公募展 出品 以降毎年出品
2018年 第1回個展 ギャラリー 洛
2018年 16ing会 出品
2019年 第2回個展 ギャラリーアン
2019年 日本・コリア友好美術展 実行委員会代表に
2019年 京都市里親会 会長に
2020年 第3回個展 8月と11月 ギャラリー35
2020年 第10回 国際平和博物館会議に
「肖像画で被爆体験を語り継ぐ」をテーマにプレゼンをおこなう
2020年 第4回 個展「原爆と人間展」 あけぼのパーク多賀 (滋賀県) 美術工芸展示室
2021年 第5回個展 ギャラリーtake two
2022年 第6回個展 ギャラリーtake two
2022年 京都芸術大学通信教育の学習会「大阪クラブ」代表に
2023年 「新美」 運営委員長に就任
2023年 第7回個展 「ヌードテーマ」初の個展 ギャラリーtake two
2023年 「オマールさん」の肖像画が2点 圓光寺に寄贈
2023年 第8回個展 ギャラリーtake two
このプロジェクトで実現したいこと
広島での個展
開催日時:2024年2月13日(火)~18日(日)11:00~19:00
最終日は16:00まで。
会場 ギャラリーG
会期中、3回のギャラリートークを予定しております。肖像画に込めた思いや制作にまつわるエピソード
語らなかった両親を描く~被爆二世の画家として見つめたルーツ~
13日(火)13:30~14:30
私の両親は、ともに広島で原爆の被害にあった被爆者です。しかし、二人ともその体験を語らずに亡くなりました。被爆者の肖像画を多数描いてきた増田さんですが、今回初めて、両親を描くことに決めました。自分のルーツを見つめ直すにあたり、広島で両親が被爆した場所を歩き、調査を行いました。なぜ今、両親の肖像画に取り組もうと思ったのか。そしてその過程で感じたこととは。画家として、被爆二世としての思いを 語ります。
聞き手:小山美砂(ジャーナリスト、元毎日新聞記者)
被爆南方特別留学生を描いて~あの日、同じ空を見つめた
女学生の物語と共に~
15日(木)13:30~14:30/18:30~19:30
2022年に被爆南方特別留学生サイド・オマールさんの肖像画を描きました。2023年はオマールさんに縁ある二人の肖像画制作に挑みました。キャンバスに描いたのは、オマールさんと同じヒロシマを見た南方特別留学生ニック・ユソフさんと、オマールさんと共にヒロシマの夜空を見つめた栗原明子さん。ギャラリートークでは、3人の肖像画を前で完成までのエピソードなどを語ります、それぞれの物語を見つめます。
聞き手:榊原恵美子(Storytelling for Tomorrow)
絵画と文学が拓く 被爆体験伝承の可能性~肖像画に描いた被爆者と共に~
17日(土)14:00~15:30
肖像画を制作する際、被爆体験や平和への思いを聞き取りながらデッサンを仕上げていきます。この日は、制作に協力してくれた広島在住の被爆者・松本滋恵さんをお招きし、完成した肖像画を囲みながらお話を伺います。松本さんは、77歳で原爆詩人・栗原貞子について研究し、博士号を取得した方でもあります。その内容は、一冊の本として2023年に出版されました。絵画と文学、それぞれの方法で原爆の記憶を受け継ぐ二人と、体験伝承の可能性についても考えます。
ゲスト:松本滋恵さん(被爆者、『行動する詩人 栗原貞子』著者)
などの取り組みを計画しています。
プロジェクト立ち上げの背景
わたしは、京都市在住(53年間) 広島は生まれ育った場所であり、両親が原爆に遭った場所でもあります。ただ、父と母は被爆体験を語らずに亡くなりました。今回、その姿を描くことで自身のルーツを見つめ直そうと、これまでは描くのを避けてきた両親の肖像画を完成させました。「里帰り」の思いを込めて、広島で個展を開催します。
これまでに対話を重ねてきた被爆者や、ともに活動を続ける被爆二世の肖像画も多数展示します。また、異国の地で原爆の犠牲となったサイド・オマールさんら南方特別留学生についても、資料を読み込んで在りし日の姿を描きました。「被爆者の肖像画」と対面して平和への願いを感じるとともに、絵画による体験伝承の試みについても考える機会となれば幸いです。
現在の準備状況
個展の会場の抑える
チラシ、DMの作成
被爆者の肖像画の取材のために 今年になって 広島(現地)に 2回(4月、11月) 延べ4日間 関係者と対話を重ねています
ギャラリートーク 三つのの準備 選考に向けて関係者の打ち合わせを繰り返し行っています。
リターンについて
絵画、画集、お礼の色紙、ポストカード、など
スケジュール
〇2023年6月 個展の会場費支払い 会場を確保
〇2023年11月 チラシ、DM作成 案内開始
〇2024年個展 ギャラリートークなど実践
〇2024年2月 クラウドファンディング終了
〇2024月2月 画集の発行
〇2024年3月 リターン発送
資金の使い道
会場費 | 120,000 |
デザイン代 | 30,000 |
チラシ 印刷代 | 8,000 |
ギャラリー会費 | 5,000 |
DM 印刷代 | 3,000 |
郵送代 | 30,000 |
画集 作成代 | 150,000 |
交通費 | 30,000 |
宿泊代 | 80,000 |
備品 | 20,000 |
雑費 | 14,000 |
運搬代 | 110,000 |
合計 | 600,000 |
※ 単位は 円
最後に
「被爆者の肖像画」と対面して平和への願いとともに、絵画による体験伝承のとりくみの継続発展のために、ご協力をお願いします
<募集方式について>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。
最新の活動報告
もっと見る5 回目の塗りをしました 10番目の被爆二世の肖像画 ズルキフリ・アブドゥル・ラザク(72歳)
2024/02/01 17:0031日 5 回目の塗りをしました10番目の被爆二世の肖像画ズルキフリ・アブドゥル・ラザク(72歳) 被爆南方特別留学生、アブドル・ラザクさんの長男マレーシアの名誉教授、教育者、科学者であり、2018年8月1日からマレーシア国際イスラム大学(IIUM)の第6代学長を務めている。彼は2012年から国際大学協会の会長を務めている。から 2016 年まで、2016 年 4 月から 2018 年 9 月までマレーシア サインス イスラム マレーシア大学(USIM) 理事長を務めました。31st. Fifth coat of paint applied.Tenth portrait of the second generation of A-bomb survivors.Dzulkifli Abdul Razak, 72. Eldest son of Abdul Razak, special student of the A-bombed SouthHe is an emeritus professor, educator and scientist in Malaysia and the sixth President of the International Islamic University Malaysia (IIUM) since 1 August 2018. He has been President of the International Association of Universities since 2012. to 2016, and as Chancellor of Universiti Sains Islam Malaysia (USIM) from April 2016 to September 2018.め もっと見る
4 回目の塗り 10番目の被爆二世の肖像画
2024/01/28 19:00昨日 4 回目の塗り (2~3日かかりました)19日に再度お会いして 人柄など 拝見することができました。10番目の被爆二世の肖像画ズルキフリ・ビン・アブドゥル・ラザク(72歳) 被爆南方特別留学生、アブドル・ラザクさんの長男マレーシアの名誉教授、教育者、科学者であり、2018年8月1日からマレーシア国際イスラム大学(IIUM)の第6代学長を務めている。彼は2012年から国際大学協会の会長を務めている。から 2016 年まで、2016 年 4 月から 2018 年 9 月までマレーシア サインス イスラム マレーシア大学(USIM) 理事長を務めました。Yesterday. Fourth coat of paint (took a couple of days)We met again on the 19th and got to see his personality, etc.Portrait of the 10th A-bombed NiseiDZulkifli bin Abdul Razak (72). Eldest son of Abdul Razak, a special student from the A-bombed SouthHe is an emeritus professor, educator and scientist in Malaysia and the sixth President of the International Islamic University Malaysia (IIUM) since 1 August 2018. He has served as President of the International Association of Universities since 2012. to 2016, and as Chancellor of Universiti Sains Islam Malaysia (USIM) from April 2016 to September 2018. もっと見る
被爆南方特別留学生、アブドル・ラザクさんの肖像画をスタートしました。
2024/01/24 20:00被爆南方特別留学生、アブドル・ラザクさんの肖像画をスタートしました。 息子さんのズルキフリさんから送っていただいた「写真」を元に 1週間かけて布キャンバスに下書きしました アブドル・ラザクさんの紹介ウィキペディア から 一部 紹介します生誕1925年7月7日ジョージタウン死没2013年7月18日(88歳没)クアラルンプール国籍マレーシアの旗 マレーシア出身校広島大学スルタン・イドリス教育大学職業マラ工科大学講師広島市への原子爆弾投下で被爆した南方特別留学生アブドゥル・ラザク。マレーシア国内でマレー語教育、ルックイースト政策下で日本語教育に尽力した人物。息子が3人おり、その一人がズルキフリ・アブドゥル・ラザク1945年8月6日、爆心地から約1.5kmに位置した大学構内(広島高等師範学校ピアノ室)でペンギラン・ユソフと2人で戸田清教授から数学を受講中に被爆する、ちょうど戸田が2人のそばで話しかけていたところで被爆し、木造2階建の建物が全壊したが机とピアノに守られたため、3人とも無事で自力で脱出した。その後大学の校庭に野宿しながら他の日本人被爆者の救助に尽力している。なお当時広島で被爆した南方特別留学生のうちマレーシア人はアブドル・ラザクとニック・ユソフとサイド・オマールの3人、アブドル・ラザク以外の2人は同年に被爆死しており、アブドル・ラザクはマレーシア人被爆者としては唯一の戦後存命者である。We started a portrait of Abdul Razak, a special student from the A-bombed South. Based on a 'photo' sent to me by his son Zulkifli, I spent a week drafting the portrait on a cloth canvas.I drafted it on a cloth canvas. Introduction of Abdul RazakHere is a partial introduction from WikipediaBirth date7 July 1925GeorgetownDied.18 July 2013 (d. 88)Kuala LumpurNationalityMalaysian flag MalaysiaAlma Mater Alma Mater Alma Mater Alma Mater Alma Mater Alma MaterHiroshima UniversitySultan Idris College of EducationOccupationLecturer, Universiti Teknologi MaraAbdul Razak, a special student from the South who was exposed to the atomic bombing of the city of Hiroshima.He was instrumental in Malay language education in Malaysia and Japanese language education under the Look East policy. Has three sons, one of whom is Zulkifli Abdul Razak.On 6 August 1945, he and Pengilan Yusof were exposed to the atomic bomb while taking mathematics lessons from Professor Kiyoshi Toda in the piano room of Hiroshima Higher Normal School, about 1.5 km from the hypocentre. All three were safe and escaped on their own.They were then camped out in a university playground and helped rescue other Japanese survivors of the atomic bombing. Of the southern students who were exposed to the atomic bombing in Hiroshima at the time, three were Malaysians - Abdul Razak, Nick Yusof and Said Omar - and two others died the same year, making Abdul Razak the only Malaysian survivor of the war.https://ja.m.wikipedia.org/.../%E3%83%8F%E3%82%B8%E3%83... もっと見る
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