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増田正昭個展 被爆者の肖像画——語らなかった両親を描く 2月13日~18

これまでに対話を重ねてきた被爆者や、ともに活動を続ける被爆二世の肖像画も多数展示します。また、異国の地で原爆の犠牲となったサイド・オマールさんら南方特別留学生についても、資料を読み込んで在りし日の姿を描きました。「被爆者の肖像画」と対面して平和への願いを感じるとともに、絵画による体験伝承の試み

現在の支援総額

28,000

4%

目標金額は600,000円

支援者数

9

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2024/01/05に募集を開始し、 9人の支援により 28,000円の資金を集め、 2024/02/18に募集を終了しました

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増田正昭個展 被爆者の肖像画——語らなかった両親を描く 2月13日~18

現在の支援総額

28,000

4%達成

終了

目標金額600,000

支援者数9

このプロジェクトは、2024/01/05に募集を開始し、 9人の支援により 28,000円の資金を集め、 2024/02/18に募集を終了しました

これまでに対話を重ねてきた被爆者や、ともに活動を続ける被爆二世の肖像画も多数展示します。また、異国の地で原爆の犠牲となったサイド・オマールさんら南方特別留学生についても、資料を読み込んで在りし日の姿を描きました。「被爆者の肖像画」と対面して平和への願いを感じるとともに、絵画による体験伝承の試み

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被爆南方特別留学生、アブドル・ラザクさんの肖像画をスタートしました。
 息子さんのズルキフリさんから送っていただいた「写真」を元に 1週間かけて
布キャンバスに下書きしました


 アブドル・ラザクさんの紹介

ウィキペディア から 一部 紹介します

生誕

1925年7月7日
ジョージタウン
死没
2013年7月18日(88歳没)
クアラルンプール
国籍
マレーシアの旗 マレーシア
出身校
広島大学
スルタン・イドリス教育大学
職業
マラ工科大学講師


広島市への原子爆弾投下で被爆した南方特別留学生アブドゥル・ラザク。

マレーシア国内でマレー語教育、ルックイースト政策下で日本語教育に尽力した人物。息子が3人おり、その一人がズルキフリ・アブドゥル・ラザク


1945年8月6日、爆心地から約1.5kmに位置した大学構内(広島高等師範学校ピアノ室)でペンギラン・ユソフと2人で戸田清教授から数学を受講中に被爆する、ちょうど戸田が2人のそばで話しかけていたところで被爆し、木造2階建の建物が全壊したが机とピアノに守られたため、3人とも無事で自力で脱出した。

その後大学の校庭に野宿しながら他の日本人被爆者の救助に尽力している。なお当時広島で被爆した南方特別留学生のうちマレーシア人はアブドル・ラザクとニック・ユソフとサイド・オマールの3人、アブドル・ラザク以外の2人は同年に被爆死しており、アブドル・ラザクはマレーシア人被爆者としては唯一の戦後存命者である。


We started a portrait of Abdul Razak, a special student from the A-bombed South.

 Based on a 'photo' sent to me by his son Zulkifli, I spent a week drafting the portrait on a cloth canvas.
I drafted it on a cloth canvas.


 Introduction of Abdul Razak

Here is a partial introduction from Wikipedia

Birth date

7 July 1925
Georgetown
Died.
18 July 2013 (d. 88)
Kuala Lumpur
Nationality
Malaysian flag Malaysia
Alma Mater Alma Mater Alma Mater Alma Mater Alma Mater Alma Mater
Hiroshima University
Sultan Idris College of Education
Occupation
Lecturer, Universiti Teknologi Mara



Abdul Razak, a special student from the South who was exposed to the atomic bombing of the city of Hiroshima.
He was instrumental in Malay language education in Malaysia and Japanese language education under the Look East policy. Has three sons, one of whom is Zulkifli Abdul Razak.



On 6 August 1945, he and Pengilan Yusof were exposed to the atomic bomb while taking mathematics lessons from Professor Kiyoshi Toda in the piano room of Hiroshima Higher Normal School, about 1.5 km from the hypocentre. All three were safe and escaped on their own.
They were then camped out in a university playground and helped rescue other Japanese survivors of the atomic bombing. Of the southern students who were exposed to the atomic bombing in Hiroshima at the time, three were Malaysians - Abdul Razak, Nick Yusof and Said Omar - and two others died the same year, making Abdul Razak the only Malaysian survivor of the war.



https://ja.m.wikipedia.org/.../%E3%83%8F%E3%82%B8%E3%83...


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