みなさん、こんにちは。今日はこのクラファンプロジェクトのきっかけとなったダワさんについてご紹介したいと思います。ダワさんは「ブータン脳卒中財団」の創設者であり事務局長です。かなり長くなりますが、ダワさんがなぜこの活動をしているのか、よかったらご一読ください。ある日突然、意識を失った妻本サイトのほうでも書きましたが、ダワさんの妻は突然、34歳の若さで脳卒中により意識を失い、危篤状態になりました。その後もしばらく重症で長いリハビリが必要な試練に直面。そのため、現地や日本の医師らと連携して「ブータン脳卒中財団」を立ち上げることになったのだそうです。わたし自身も昨年、同居の実母が脳内出血で緊急入院となったため、人ごととは思えないエピソードに胸が締め付けられました。幸せだった人生が急転それまでダワさんは妻と2人の子どもと、比較的順調な人生を送っていました。▲ダワ ツエリング(39歳)さんと妻リンチェン ペルモ(34歳)さん、そして子ども達けれども突如、妻の脳卒中やその後の自宅ケアなどで家族全体を大きく揺るがす辛い状況に追い込まれたダワさん。後に決心した組織設立の際も、簡単にはいかず、投げ出したいほどの困難があったといいます。「最悪の場合の覚悟をするように」ダワさんの妻リンチェンさんが、突然ダワさんの目の前で意識を失い地面に倒れたのは2019年。妻は34歳の若さでした。妻を抱えて病院に駆けつけたダワさん。リンチェンさんはICUに入り生命維持装置につながれました。医師はダワさんにこう告げたそうです。「最悪の場合の覚悟をするように」と。その後1週間以上、意識が戻らなかったリンチェンさん。ダワさんは、脳卒中とは何なのか、どうしたら治るのか、友人を通して情報を集めました。くわしい医師、タシ氏の論文に行き着き、連絡を取ったといいます。今の日本は、スマホで検索すればあらゆる病気や怪我の状況、効果的な手術方法、薬、リハビリの方法などがわかりますし、わたしの母が入院した際も、「こういう手術をして1週間後には退院できます」と書類を渡されたため、それがわかっただけでも、巨大な不安が取り除かれたのを覚えています。けれども当時ブータンには、脳卒中について正しい情報が一般市民には行き渡っていなかったのです。ダワさんや子どもたちは、どれだけ不安な日々を送ったことか……。妻を負ぶって、あらゆるところへリンチェンさんが倒れて3週間後。彼女は意識を取り戻しましたが、「失語症」の後遺症があり、全く話すことができませんでした。しかも半身不随で寝たきり。ほどんど何もできなかったそうです。ただ、ダワさんが「水が欲しいか、果物がほしいか」と尋ねると、目のまばたきで意志を伝えられるくらいでした。入院23日後には退院して自宅に戻ったそうですが、この時からダワさんの家庭には社会的にも経済的にも重圧がのしかかってきました。我が家の場合も、母に後遺症が残るかもしれないと言われていたため、多少の覚悟はしましたが、「様々なリハビリを試せば良くなる可能性もあるし、いざとなったらプロのケアや、家事代行を検討しよう」「自分の仕事と両立できる方法を考えよう」という希望や選択肢がありました。けれどブータンでは当時、脳卒中患者が退院した後のリハビリテーションや在宅ケアは皆無。政府の予算や人材は不足し、公的支援もほぼ皆無。また脳卒中に関して迷信も多かったと言います。ダワさんは休職し、妻を背におんぶして、病院や寺など、あらゆるところへ行き、回復を試みたそうです。▲ダワさんの妻リンチェンさん「ブータン脳卒中協会」設立への動き寝たきりだったリンチェンさんがなんとか自力で歩けるようになったのは1年半後。その背景には、タシ医師の支えや導き、日本人医師・藤原茂氏の協力が大きかったといいます。タシ医師は、その頃、脳卒中患者を支援するフォーラムを作りたいが医師という立場や当時の医療の仕組みではできないため、ダワさんにそれを作ってほしいと打診し、アドバイス。それにより2019年、ブータン脳卒中協会の任意団体が設立されました。藤原先生の支援その頃、藤原先生はダワさん一家の窮状と、組織設立の動きを知り、ブータンまではるばる駆けつけたそうです。そして5日間に渡り、リンチェンさんにリハビリを施し、何をしたらいいかを指導。その日から彼女の様子は大きく改善しました。「涙がこぼれてしかたなかった」とダワさん。またダワさんは当時、どのように組織を立ち上げたらいいか、またリハビリのために何をどうしたらいいか分からなかったそうですが、それについても藤原先生に背中を押してもらい、前進したそうです。日本のリハビリ施設やJICAの支援その後、ブータン人の青年たちが日本のリハビリ施設「夢のみずうみ村」で研修を受け、ブータンディケアセンターの企画・運営に関わり、基盤を作ることができたといいます。ただ、設立には資金という難題がありました。それにはJICA基金の支援が大きな役割を果たしたそうです。(JICAのサイトには、2011年にJICAが救急車を贈与した記録も載っています。ぜひご覧ください)https://www.jica.go.jp/oda/project/1060740/index.html藤原先生による必死の遠隔指導藤原先生は帰国後、1週間準備して作ったビデオ画像や、ZOOMを使い、ブータンのチームにゼロからリハビリを指導。限られた時間や画面では細かいところが伝わらないうえ、言葉と文化と国民性の違いに、「そうじゃない、そうじゃない」と地団駄を踏むことが何度もあったという藤原先生。ZOOM後、参加者はみなグッタリし、藤原先生は「投げ出したいけど投げ出さない」とぼやくこともあったのだそう。そんななか、藤原先生が体調を崩すという危機も発生。身体的にも精神的にも経済的にもギリギリのところで進んできたといいます。けれどもこうした姿勢が、希望を失い無意に過ごしてきた脳卒中の患者さん自信を励まし、受け身の姿勢に火をつけたと関係者は語っています。ディケアセンターと事務所の開設さて、そうこうしてダワさんはデイケアセンターと、組織の事務所を2021年に開設することになりました。ダワさんは必死に頑張って街中のアパートの1階に物件を見つけ、「夢のみずうみ村」の研修生だったメンバーや、ボランティア3名、リンチェンさんや脳卒中患者さんたちと一丸になって掃除。友人・知人から寄付で募った中古のテーブルや椅子、机、本棚を運び込んだそうです。ちなみにその頃、ブータンの国の予算はコロナ対策にほとんど使われてしまっていたと言います。今回わたしはそれを知って、日本の医療環境やリハビリ施設がいかに恵まれているか思い知らされました。また、ダワさん一家を救ったタシ医師や藤原先生もそうですが、母の手術・入院に関わってくださった医療関係者の方々の姿を見聞きすると、本当に頭が下がるばかりです。リンチェンさんや他の当事者も元気にダワさんたちが作ったデイケアセンターを通して、リンチェンさんや他の脳卒中患者さんたちは、とても元気になっていきました。当事者や家族は、その様子を積極的に発信。そして皆さんがメッセンジャーグループをつくってやりとりするなど、セルフヘルプの仲間づくりや、コミュニティづくりに発展していったといいます。一時は休職せざるを得なかったダワさんですが、ダワさん自身もこうした活動の結果、重要な委員に選ばれるなど、リーダーとして成長していったのだそうです。(参考資料:https://www.jica.go.jp/Resource/partner/private/kifu/ku57pq00002o2qok-att/09_2020_02.pdf)この好循環を絶やさず広げるために日本で脳に損傷を負ったわたしの母の場合、30分以内に車でスムーズに大きな病院に行くことができ、その日に手術がサッと終わり、術後のケアも確立されていました。そのおかげもあってか、幸いなことに後遺症は出ませんでした。我が家の暮らしは比較的すぐ元通りになり、日常のありがたさを噛み締めました。日本はこれまで、あらゆる面で医療体制が進歩してきたからでしょう。でもブータンでは、車も大きな病院も少なく、道路は未舗装の山道が続きます。そのため脳卒中になると死亡率も後遺症になる率も高く、当事者や家族のダメージは計り知れません。脳卒中は早く対応すれば重い事態が防げるとわかっているだけに、歯がゆい状況です。けれども、ダワさん、タシ医師、藤原先生、「夢のみずうみ村」の研修生メンバー、当事者とその家族が、懸命に幾多の苦難を乗り越え、一歩ずつ一歩ずつ改善させてきました。そのダワさんの活動や想いが、私たちの長年の友人イシェ(ティンプーロータリークラブの元クラブ幹事)に伝わり、イシェから私たち「半田ブータン青少年交流協会」に伝わりました。そのタスキをつなぐべく、私たちは今回クラファンを立ち上げたのです。この想いのタスキを小型救急車へいまブータンに必要な小型救急車を購入し、ブータンの脳卒中患者の死亡者や後遺症になる患者を減らすことが、今回のゴールです。そのためのご協力をどうかお願いいたします。この投稿を書いている時点では、残り8日間でまだ目標金額250万円の半分にも到達していませんが、諦めずに粘りたいと思っています。藤原先生は「一人では何もできない。しかし一人が始めなければ何も始まらない」とよく口癖で言っておられるそうです。この言葉を胸に刻み、私たちも支援のタスキをつないでいきます。ラストスパートへの応援として、拡散やご支援を何卒お願いいたします!半田ブータン青少年交流会スタッフ