みなさんこんにちは仲宗根糀家の山川です。私は今回のおから活用プロジェクトの運営・管理全般に携わらせていただいております。今回は活動報告という趣旨から少し離れてしまいますが、私が仲宗根糀家に対して持っている想いを暑苦しく心のままに書かせていただきます。先ずは、私山川の自己紹介から。改めて、仲宗根糀家の山川剛司と申します。奈良県・1992年生まれの今年32歳になります。なぜ奈良県出身のナイチャーが沖縄の糀の会社?と疑問を持たれる方も多いと思います。私の奥さんが久米島という沖縄の離島の出身でもあり、沖縄が大好きになり沖縄に移住をしてきました。元々は、飲料メーカーで企画・営業のお仕事をしていて、沖縄への移住を機に県内企業様への経営コンサルティング支援を行う会社へ転職しました。最初の仲宗根糀家との出会いは沖縄に来た時から始まっていました。というのも、転職した会社で県内企業さんへの挨拶回りをしている時に、仲宗根糀家に訪問したことが出会の始まりだったんです。その時はまだ、糀のことも発酵のことも興味がなかったのですが、当時の私は転職や移住などの環境の変化から腸内環境なども荒れていて、特に便秘に悩まされていました。腸内環境が荒れると、体調や肌にも悪い影響が出始めてきていて、とにかく悩みの種だったことを覚えています。始めての挨拶の時に糀の話をしてもらい、自分に効くか分からないけど便秘に効く可能性があるならとにかく試してみようという軽い気持ちで甘こうじを購入して、飲み始めました。最初の1週間は特に変化もなくあまり意味もないのかもと半信半疑でしたが、とにかく言われた通り1ヶ月は試してみようとその後も続けてみました。変化を感じたのは2週間を経過したくらいからで、これまで悩んでいた便秘が徐々に改善されていくのを実感するようになりました。人によって効果や反応の出方をそれぞれと言いますが、少なくとも私の体には凄く合っていました。それからというもの糀は私にとって欠かせない存在となり、気づけば仲宗根糀家のユーザーとなっていました。自分の原体験として、糀で体調が改善されたことが印象として大きく残っていて、しかも美味しいのだからこんな素晴らしい商品は他にないと感動したことを覚えています。ただ、だからといって仲宗根糀家で働くなどの考えは当時はなく、いちユーザーという立場に過ぎませんでした。その出会いから3年ほど経過した後に、たまたま仕事の関係でまた仲宗根糀家に訪問することになります。そこで、仲宗根社長とじっくりお話をする機会があり、段々と話していくうちに後継者が不在であることを私に話してくれました。社長が60歳の時に、沖縄で初めて黄麹の製造をスタートし、今では70歳。この先のことを考えると、このまま後継者不在で会社をたたむ時がくるのかもと。私が過去便秘や腸内環境の悪化で苦しんでいた時に助けてくれた仲宗根糀家の素晴らしい商品が、このままなくなってしまうのはどうしても避けたい。そして、沖縄で黄麹を会社規模で製造している数少ない会社がなくなると、沖縄の人たちは県外で作られたものしか食べることができなくなってしまう。沖縄生まれの黄麹がなくなってしまう。その話を聞いて、私はいてもたってもいれなくなってしまいました。麹に関する知識はほとんどないけれど、それでもなんとか引き継ぎたい。この会社を10年後、20年後、30年後も遺していきたい。社長に私の想いを伝え、3ヶ月後には、会社を退職して仲宗根糀家のメンバーとして働き始めていました。麹についての知識はこれから必死に学んでいこう。そして、これまで幸いにも経験させていただいた経営に関する知識や集客の方法など、逆に自分にできることは全てを捧げて仲宗根糀家の発展のために注ぎたいと心から思いました。(前職を辞めて仲宗根糀家を継ぐことをずっと応援してくれている奥さんには感謝しかありません。)糀や発酵について知れば知るほど奥の深さと、その力に驚かされます。そして糀や発酵の力が持つ未知数の可能性に心が躍ります。私が糀に助けられたように、糀でこれから救われる人もいるのではと思うと、もっと多くの人に知ってほしいとも思います。そして、沖縄の黄麹製造を担う一端となれていることを誇りに思っています。お客様とお話をする機会もよくあるのですが、仲宗根糀家のファンの皆様に支えられこれまで営業を続けてこられているんだなと改めて実感することが多く、これからも地元の皆様に愛される会社でありたいと思っています。仲宗根糀家に出会えたご縁に感謝するとともに、いつも仲宗根糀家を応援してくださっている皆様には改めて感謝を申し上げます。そしてこれからも末永く、仲宗根糀家を愛していただけると嬉しいです。これからも、皆様の健康と美しさを内側から支えられるような、商品作りを行なってまいりますので、今後の仲宗根糀家の動向をお楽しみいただければ幸いです。






