こんにちは。
活動報告をご覧頂きありがとうございます!
今回は本文では書かなかった〈私が渡仏した経緯〉について書こうと思います。
2013年秋、私はワーホリビザ(1年のビザ)を取って渡仏することになりました。
きっかけは 夫が学生だった時に一緒にフランスに行こうと誘ってくれたことでした。
私も夫も2011年3月の東北の震災や原子力発電所の事故が起きた直後に大学を卒業し、これから自分たちはどう社会でやっていくか世の中を見て考えていた頃でした。
日本にいた時の夫は、大学でエネルギーの研究をしていて、教授の退任や震災以降に研究費が大幅に減るだろうというタイミングで日本で大学院を修了し2013年夏に渡仏しました。
私は当初フランスに行かないつもりでした。日本の生活が自分に合っていたし、大学を卒業し働いてようやく自分のペースに慣れ制作もできていた頃だったので。
奨学金返済もあり金銭的にも言語的にも不安で、フランス生活のイメージが全くできませんでした。
しかし25歳になる前の春、働いていた会社の経営が危ないと朝礼で伝えられ、今後は会社を色々変えるということでした。
自分としては、日本にいてもフランスに行っても不安なのは変わらないんだろうなと思い、それなら思い切って10000km離れたフランスへ行こうと、渡仏を決めました。
2013年秋、私も渡仏しグルノーブル(Grenoble)という研究・大学地方都市に住み始めました。
当初、夫は電気自動車の研究をし博士号を取った後は帰国する予定でした。しかし当時 原子力発電所によるエネルギー確保が8割だったフランスでは、震災以降 様々な対策や検討があり〈直立送電網〉の研究所をリヨン近郊に設立することになりました。特にヨーロッパでは脱原発・自然エネルギー推進の動きがある中で、インフラの研究所は国にとって重要で国や企業や様々な大学の人材を集めつくられました。
夫はまじめに勉強し研究していたのを認められ、立ち上げ当初から研究所に配属されました。
そんな経緯があり、2014年2月にリヨンに引っ越ししてきました。
突然の引越しや住居探しはとても大変で、外国人の学生という立場は、家を借りるのにもとても苦労しました。
そして夫にはフランスに来た目的がありましたが、私はというとフランス語力も知り合いも仕事もなく......ただ自分ができることはやろうという気持ちで制作を続けていました。
日本にいた頃の私は、人物をモチーフとして描くことが殆どでした。ハッキリした顔立ちだったからか異質なものを見るように顔をじろじろ見られ「外国人」とコソコソ言われたり。そのような様々な苦い経験や若かったのもあり、自己と向き合う機会が多かったように思います。
フランスで生活するうちに、私は自己と向き合いつつより世界と向き合う事になりました。日々、様々な人々や価値観と出会うなかで私は無意識に人物モチーフを描かなくなり、抽象的でまた記号的な絵を描くようになりました。
夫がエネルギーの研究をしているということもあり、最近は特にエネルギーや環境問題に関わる政治的な側面や、またエネルギーや資源の問題で揺れ、不安や争いが絶えない世界を感じます。
そんな世界の中で、私にとってアートは希望です。
言葉や学歴、国籍、貧富の差を越えて作品を通し他者が他者に共感できるツールでもあります。地元でも異国であってもどこにいてもです。
SNSやAIなど科学の進歩で世界の様々なものが見え過激に伝わるようになり、何を信じていいかわからなくなった時、私が信じられるのは個人がやっているArtなのだろうと思い、制作活動や鑑賞を続けています。