「日本舞踊の稽古場にはいろんな人がいる」「いつでもだれでも日本舞踊が楽しめる世の中であってほしい」と思っていましたが、「いろんな人」「誰でも」に車いすの人は入っていたのか?という疑問から始まったこのプロジェクト。27日(土) はついに、成果報告会でした。会場にてご参加いただいたみなさま、陰ながら応援してくださったみなさま、ありがとうございました!これまでの稽古を通じてわかった車いす舞踊の魅力や課題を報告、そして、白井さんは実に堂々と舞われました。チーム全員が初めての試みだったこのプロジェクトでしたが、一つの区切りを迎えることができました。この成果報告会もふまえて、レポートを作成、みなさんにお送りします。ひょんなことで 白井さんと出会い、初めてのオンラインMTGで「私、稽古しますよ」と思いもかけない申し出をいただき、 葉月流が加わってくださりチームを作って2023年10月にスタートしました。曲選び、衣裳選び、会場選び、これまで関わってきた「日本舞踊」とはすべて少しずつ違う観点が入り、稽古も発見の連続でした。「障がい」を通してみると本質を問われるような気がしました。例えば、二部式の着物。「二部式はちゃんとしてない」と思われがちですが、「ちゃんとした着物」を車いすの人が着るのがどれだけ大変なことか。それを着ることにも価値はあると思うけど、トイレにも行けない。「二部式はちゃんとしてない」という評価は正しかったのだろうか?「着物を着る」ってどういうことだっけ?二部式の着物はバリエーションが少ないです。なので車いすの人は選択肢が限られます。着物でおしゃれしようと思ってもできないのです。二部式を評価していれば、こうはなってなかったんじゃないか…?日本舞踊では指先をきれいに揃えましょう、と言われますが、白井さんは指が伸ばせません。しかし扇子を持つと、それは美しくそろえた指先にも等しい。扇子の持っている表現力ってこんなにすごかったんだ、とか…「アダプティブスポーツ」という概念も知りました。ルールを柔軟に変えて誰もが参加できるスポーツにしよう、という考えが「アダプティブスポーツ」です。日本舞踊が、より多くの人、という意味ではなく、本当の意味で「だれもが参加できる」舞踊を目指したとき、どのような変化が起きるのでしょうか?かのように、「障がい」を通してみると本質を問われるのです。プロジェクトはもうちょっと続きます!
伝統芸能 の付いた活動報告
今日は指先の表現と、扇子(道具)について考えたことを書きます。日本舞踊において指先の表現はとても重要です。日本舞踊は指先の扱い方ひとつで、印象が大きく変わります。「親指を揃えて」とか、「指先伸ばして」とか注意された経験を持つ人も多いのではないでしょうか。衣裳や道具がシンプルな分、なおさら厳しく言われるのでしょう。日本舞踊に限らず、ダンサーの評価ポイントの一つが、どんな状況においでも、指先まで意識がなされているか、であると聞いたこともあります。さてしかし、白井さんは指先を伸ばすことができません。なので日本舞踊で当たり前に言われる「指先を綺麗に伸ばす」ができないのです。一方、扇子を持つことはできます。扇子は日本舞踊において最もポピュラーな小道具として、そしてさまざまな見立てを行うものとして使われます。白井さんが扇子を持つと、それは、手の延長として綺麗に伸ばした指先にも見えてきます。伸ばさない手が美しくないとは言いません。しかし、扇子を持つことで、まっすぐに伸ばした指先(手)という表現を手に入れた、ということができるのではないでしょうか。車いす舞踊における扇子の役割を考えると、手の表現のバリエーションを増やすことともに、上下の表現の幅を増やすという役割もありそうです。下半身が自由に使えれば、床に臥すこともできるしジャンプすることもできます。160センチくらいの人なら、0センチから250センチくらいの上下の枠の中で表現ができます。しかし車いすに座っている状態では、手を挙げたところまで、せいぜい150-60センチくらいの枠しか使えません。扇子はそれを拡張できます。横移動も然りです。車いすは横移動もできますが、タイヤを手で動かさなければならないため、余計なモーションが入り、手も塞がれます。移動せずに表現の物理的な幅を増やすには扇子などの道具が有効です。また、道具の活用とともに、車いす舞踊だからこそ、限られた空間の中で効果的に表現するにはどうすれば良いのか、という課題が見えてきます。補うのか、拡張するのか足が動かないから車いすを使う。これは、道具で身体を補うことです。なぜ扇子を使うのかというと、それは手だけでは表現できないものを表現するためです。この場合、道具は身体を拡張しています。扇子は、白井さんの、指がまっすぐではないという身体的特徴を補うとともに拡張して見せました。車いすも、その特徴を生かせば、補いつつ、身体を拡張し、独自の表現に到達することは十分にあり得るでしょう。今回の稽古では、そのことに気づかされました。