この写真は10年前にベトナムに行き、ツーヅー病院にて、ドクさんと初めて会った時の写真です、真ん中の年配の方は
その頃交流をさせていただいていて、
美地の平和を語り継ぐコンサートで戦争語り部をしてくれた
上松輝昭さんです。
平和祈りの旅もベトナム。カンボジアとご一緒に参加してくださいました。
次の企画、スリランカの頃体調をくずされ参加できず、
お空の人になってしまいました。
昨年NHKファミリーヒストリーで
近藤はるなさんの出演の時に
おじいさんが少年飛行兵だったという話しから、どなたかでないかな?と思っていました。
(はるなさんの祖父の敏明。成績優秀で中学進学を望んだが、経済的理由で断念。昭和18年、敏明は陸軍少年飛行兵に志願して合格した。大津陸軍少年飛行兵学校を経て、所沢陸軍航空整備学校へ。整備兵の道を歩んだ。昭和20年、印旛飛行場で陸軍飛行第23戦隊に配属。印旛飛行場は米軍の標的になり、同期は戦死したという。ほどなくして終戦。敏明は、人生の目標を失ったような複雑な気持ちだったと綴っている。)
大津で訓練生だったという事で
だれか17期少年飛行兵の方がでるのでは?と思いましたら
17期の佐藤昭さんと金さんが
インタビューを受けていました。
昨日、佐藤さんと電話で話しました。
このプロジェクトの
私の平和を語り継ぐコンサートの語り部さんのお話しを纏めるために
少年飛行兵祈念の会 で残した冊子を参考にしたいと思い、アドバイスを受けました。
みなさまとても体力がなくなり
以前は、毎月17日に集まって飲食を共にしていて、私はそこで歌ったり
お話しを聞いていたのですが、
今はご高齢化でその集いもなくなりました。
このプロジェクトも時間をかけてはいられません。
◆ 陸軍少年飛行兵学校 =昭和初期、若い志願者の中から、戦闘機などの操縦や通信、整備を行う飛行兵を養成することを目的に設立された。現在の武蔵村山市、大分市、滋賀県大津市に学校があった。「少飛」と略称される。14、15歳の少年が入学し、終戦までに約4万4000人が卒業した。卒業生のうち約4500人が戦死し、その1割は特別攻撃隊によるものとされる。
今回 制作のCD
『僕は唱歌が下手でした』の詩を
遺された
ジャワ島、獄中で亡くなった
佐藤源治さんのヒストリーも
調べています。