渡辺澄晴氏に1960年代のお話を伺っていたところ、モハメド・アリのニュースが飛び込んできました。すると、渡辺氏が大変興味深いことを語ってくれました。ご紹介します。
「アリが亡くなった」、とのニュースを聞いて、プロレスファンの方ならば、アントニオ・猪木がリングの中央に寝転んだままの状態からキックを放ち続け、アリがそれから逃れるように動き回った、あの名シーンを思い浮かべることでしょう。
そのアリに、渡辺澄晴氏は会ったことがあるというのです。1962年9月15日、当時、日本光学工業株式会社(現、株式会社ニコン)に勤めていた渡辺氏は、ニューヨークに赴任します。間もなく、シカゴで世界ヘビー級チャンピオンのフロイド・パターソンとチャールズ・ソニー・リストンとのタイトルマッチが行われることになり、渡辺氏は特設リングの真上に5台のカメラを設置するという仕事の指揮を取ったのです。試合は、あっという間で、挑戦者のリストンがチャンピオンのパターソンを1ラウンドでリングに沈めました。
2年後の1964年、そのリストンはモハメド・アリに王座を奪われたのです。そして、アリは、アントニオ・猪木との「格闘技世界一決定戦」の為に、1976年に来日します。
この時、渡辺氏の周辺から、「アリを会社に招待して、ニコンのカメラをプレセントしよう!」という話が持ち上がりました。「3億円のファイトマネーのアリが、来るとは思えない」という異論もあったのですが、それに反してアリ側があっさり快諾。アリがニコンのファンだった、との話もありますが、当時のアメリカでニコンがどれだけの評価を受けていたのかを伺い知れる出来事です。そして、ニコンの最高級機であった「NikonF3」の組み立て工場へアリを招待することが決まると、社員たちはパニック状態になったそうです。
※ 写真は、アリに「NikonF3」をプレゼントした際に撮影されたもの。
右側に座っているのが、モハメド・アリ。左はニコンの副社長。
その間でちょっと気取っている? ^^ のが、若き日の渡辺澄晴氏。