「あなたの痛みを教えてくれ」
僕には、どうしたってあなたの痛みはわからない。言葉を尽くして教えてもらったとしても、たとえその「痛み」について分かり得たとしても、それがどう「痛い」のかは実際のところ全く分からない。けれども、だからといってあなたの「痛み」そのものがこの世からきれいさっぱりなくなってしまうわけではない。
たぶんもう色々なところで言われてきたことだろうけど、誰かと話すことは、本を読むこととよく似ている。ひたすらに、分かりそうで分からない文字の連なりを追い続け、いつのまにかちょっとずつ「書かれていること」の輪郭が見えてくる。目の前のページに書かれたこのことばが、あなたの口から放たれたそのことばが、僕の中のことばと同じ意味であるようにと願いながら(時には慎重に確認し合いながら)、恐る恐る音をなぞっていく。本当は誰だって、同じことばを使えている人なんてほとんどいない。
「あなたの痛みを教えてくれ」という態度は、少し暴力的だと思う。あなたのことばはわたしのことばで、あなたが使うそのことばを私は理解できる、という姿勢がうっすら見えてしまうからだ。「多様性が大事だ」と誰もが知った顔でうたっているにも関わらず、お互いに使うことばはまるで単一のものであるかのように会話が進んでいく。この私が理解できないのは、「あなたが口下手で、言葉足らずだから」。いやいや、そのあなたが理解できないのは、「あなたが聴き下手で、言葉知らずだから」。どうしたら誰かの痛みを分かるようになれるんだろう、といつも思う。たとえお互いに同じことばを使っていたとしても、同じことばには思えないような時が往々にしてある。
誰かのことばを理解できるようになるには、自分の語彙を開いていくことが重要な気がする。自分のことばが相手のことばと違うことを、そしてその違いに自分が決定的に無自覚であることを自覚しながら、自分の語彙を開き、改訂し、異なる生への想像力を養うほかない。区分けされ、管理される都市に住んでいては難しいことのように思えるが、こういうときこそ、むやみやたらと本を読み、おもむくままに筆を走らせればよいと思う。そうやって途方もないひろがりを見据えながらお互いにお互いの想像力を開いていければ、誰かのことを全て知らずとも、隣で一緒に生きていくことはできる。
みなさん、なんでもいいから、いま近くにある本を一冊だけ手にとって、明日から毎日持ち歩きましょう。読まなくたって、「これ実は読んでないんだよね」とか言いながら友人と笑い合って、その中身を想像してみて、ボロボロになるまで持ち歩いてみましょう。そして移動中に本屋さんを見かけたら、何も買わなくてもいいので、ぜひ入ってみてください。所狭しと並べられた、知らない人の知らない人生を少しだけ垣間見ることができます。
大久保勝仁
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電気湯
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