ご支援いただいている皆様へは、わたしたちの感謝の気持ちを表すことしかできずに恐縮しております。中には、私たちと全くご縁のなかった方や、知る由もなかった方が多くいらっしゃります。本当はお一人お一人にお伝えすべきですが、この場を借りて、私たちのことを紹介させて頂きたく思っております。 公費解体が終わったことで、家族の気持ちも、地震のことを振り返ることができる心境になったこともあり、地震以来の私たちのことを、今後の防災の一助にもなってほしいと考え何回かに分けてお伝えしたいと思っております。 今回は、地震当日についてお伝えします。当日、2024年1月1日は、私たち家族は、毎年のように父、母、私、妻、息子2人の6人で輪島市門前町の父の実家で過ごしておりました。ちょうど、母の実家から皆で帰ってきたのが15時30分ごろです。写真は、帰ってきたときに、年末に父と私、2人の息子たちで作った門松を撮っておこうと思い、その時撮った写真です。それから、子供たちと外で遊んで、これから宿題の書初めをやろうかと思った矢先に最初の地震がありました。緊急地震速報が鳴り、子供たちを外から家の中へ呼び寄せましたが、それほど揺れはなく、居間で皆安堵しました。ただ、子供たちには、こんな時は屋根瓦が落ちるかもしれないから、家に入るんだよと話していました。ちょうどその時、岐阜に嫁いだ妹が心配し、電話がありました。しばらく、妹と電話で話しているときに、2度目の地震が襲います。最初は、子どもたちに言っていた通り、家にとどまろうとしましたが、揺れは収まるどころか、次第に強くなり、揺れに方向も変わりますが、終わりません。長く感じ、正に立っていられない中、玄関の梁が50cmほど下に落ちます。私はこのままではダメだと思いながら、何とか脱出させようと、近くにいた次男を玄関から外へ、突き出すように投げとばしました。そして、私と、長男を抱えた妻が脱出する中、父と母が家から出てきません。普段は叫ぶなんてことはしない私ですが、自分でも信じられないような叫びで、「早く、家から出て」と叫びます。それでも出てこない父と母、がようやくよろよろと出てきたときには、揺れも少しずつ収まっていました。本当に長く感じた時間でした。父はなぜか、「もう終わりだ、家はもうダメだ」「蔵もダメだ」とつぶやきながら出てきたのが思い出されます。母は、揺れの中、玄関のストーブにあったケトルのお湯が子どもにかからないか冷や冷やしたと言い、皆が何とか家の外に出ましたが、地面はひび割れ、その割れが直後から続く余震の大きな揺れで、開いたり閉じたりしています。これまで見たことのない光景に、私たち家族はとにかく私の車の中に入りました。そのときは、唯一囲まれた避難場所に感じられたからです。少し高台にある家から、車で移動することにしたのですが、家族皆が裸足で、全くの手ぶらで逃げだしたいました。もちろん、偶然鍵の開いていた私の車もキーは持っていませんでした。そのとき、父が自分の車のキーはポケットに入っていると言い、皆が喜びました。しかし、父の車は地震の揺れでバウンドしながらカーポートの柱にぶつかって停車していました。車がそれ以上に傷つくことは当然ですが、無理やり車をそこから出し、家族皆乗り込み、国道249号まで下ることができました。 ようやく皆が正気になり、近くのお寺の住職、近所の老夫婦、無事を確認し合いました。そのころには、もう夕闇が迫ってきていました。このまま、夜を迎え、皆が暖をとる場所が少ないことに気づきます。私と父は、私の車のキーを求め、余震の合間を縫うように、もう一度、家に戻りました。玄関の入り口近くに、はじき飛ばされたキーを発見します。そして、私は車を国道まで降ろし、近所の方々の車も含め計4台に、10名が分散し乗り込むことができました。 最初の夜を迎えます。スマートフォンは、圏外になり、地震速報はなりませんが、車のカーナビで情報を得ながら静かな夜でした。その夜は、快晴で周囲は停電の夜ですから、満天の星です。断続する地震は、揺れの前に爆弾の破裂のようなドンという音がありました。二人の息子は、地震の恐れることはなく、子どもなりに、家族のピンチを何とか乗り越えようと頑張りながら、いつの間にか寝ています。大人たちも、数時間の出来事に緊張が抜けないなか、いつの間にか寝ていました。引き続き、次の回で、2日目からも思い出したままに書き連ねていきたいと思います。文章にならない点はご了承ください。
土蔵、蚕室(農業用倉庫)、母屋の3棟がすべて解体を終えました。唯一残ったカーポートには、ブルーシートを張り、保管場所を許されたモノたちのみが、窮屈に保管されています。改めて、更地になった土地を見ると大地の揺さぶりに怯え、この土地を信じることの出来なかった11か月前が嘘のように、ずっしりとした安心できる敷地に見えます。 3年ほど前から、父が、改めて終の棲家の整備として、屋根瓦、敷地回りのコンクリート舗装、カーポートに新築などを行いました。いよいよこれからゆっくり田畑を耕し、山林を守るため生活の基盤を整えた矢先の大地震、大水害と、すべてを表現した悲惨な姿から、一転、150年の歴史と父のやってきたすべてがなくなった更地を見る父の背中は寂しさと悔しさを滲ませていました。 ただ、今まで家族皆が感じていた「あの地震さえなければ」という思いは、公費解体を終えた今は、思うことはなくなりました。0からのスタートを切り、新しい目標を見ようとしています。
天候に恵まれ、先日の豪雨で土砂崩れを起こした林地での、森林を伐採する作業を行いました。父とのチェーンソーでの作業は、危険な斜面の伐採や、不安定な倒木の伐採は、極めて慎重に行う必要があり、進めるスピードは極めてゆっくりです。どんな作業も家族での作業は一歩ずつですが、進んでいることに喜びを感じます。
蚕室(農業用倉庫)、土蔵、母屋の3棟が解体開始から3週間ほど経ち、ようやく終わりが見えてきました。代々受け継がれてきた建物たちは長い歴史の中で家族を立派に守り続け、建築上、全壊となった1月の地震の折も、家族6人を傷つけることなく立ちつづけました。県外から来られた解体の方々から、梁は太く、屋根も強くててこずっていると話されている中、失礼ながら私と父は少し嬉しいですねと答えました。解体の方々も、それはそうですねと皆で笑顔になりました。しかし、全体の景色がほぼなくなった姿を家族で眺めていると、何度振り返っても元の姿を見ることのできないどうしようもない気持ちになります。1月の地震から10か月となりますが、人生の中でも最も長く、そして最も短い10か月でした。皆さまのご支援、力強い応援を受け、マイナスを0に、0からプラスに一歩一歩進むことを家族皆で噛みしめております。