
【残り6日!】
いよいよ、カウントダウンが始まりました。
不甲斐ないアニメDAOに、暖かい挑戦状も頂戴しましたので、ぜひみなさんご確認ください
https://x.com/ID_JAPAN_AO/status/1948717451442843979
※本当にありがとうございます(涙)
今回は、呪いの話です。「祝ってやる」の方ではなく、「まじない」でもなく「のろい」です。
で、本題に入る前からめっちゃ余談です。本格的に文章を書き始めた同時期、ぼくはゲーム制作にもハマっておりました。
「描いて作って遊べるデザエモン」という「シューティングゲームを作れるソフト」がありまして。作った自作シューティングゲームをVHSに録画してコンテスト応募したりしていました。こちらもからっきしでしたが、今だに「シューティングゲームなのに、序盤に小説パートがあったり、ステージが擬似3Dになっていたり」という工夫は、我ながらよくなったな、と思っています(小学6年生の頃です)。
この「いかにルールからはみ出すか」という癖はその後もずっと抜けず、サウンドノベルツクールでRPG作ったり、RPGツクールでサウンドノベル作ったりしてました。
一応、ぼくは殿堂入り楽曲を持つボカロPですので、音楽の話もどこかでする予定ですが、ぼくがDTMをやるきっかけとなったのは、小学校低学年の時の「マリオペイント」と、この「デザエモン」です。「デザエモン」のDTM機能は今見てもよくできていて、サンプルで入っていた楽曲も本当に素晴らしい物でした。ああ、このままゲーム音楽の話をし始めると、それだけで原稿用紙100枚くらいいっちゃいそうなので、やめておきます。
また、余談ついでですが、ぼくの「文章を書きたい」熱量の素養になっていたものが小学校5年生〜中学くらいでもう一つありまして、それがラジオドラマでした。
「ツインビーパラダイス」から始まって、NHKの「青春アドベンチャー」「FMシアター」はめちゃくちゃ聴いていました。実家には、当時の録音テープが200本以上眠っています(そろそろ物理媒体の限界で聴けなくなっちゃいそうですが)
片岡玲子さんが出演されていた「新夢十夜」とか「嘘の城」とかいう耽美的なシリーズがものすごく好きで、初めて自分の小説作品が公に掲載されたのは「毎日中学生新聞」だったかと思うのですが、これらの影響を色濃く受けていた記憶があります。あ、あと宮沢賢治にめちゃくちゃハマっていたので、その影響もあったかも。
(宮沢賢治好きはずっとその後も続いていて、大人になってDTMやボカロはじめてから、アルバム1枚まるまる宮沢賢治のテーマで楽曲作ったことがあります)
あと、この時最もハマっていたアニメが若き日の庵野監督の「王立宇宙軍」で、VHSの録画でしたが、全てのセリフを暗記するくらい繰り返しみてました。
小説に話を戻します。
中学生時代はよく考えたらあまり小説を書かなかった気がします(多分、部活とゲームに忙しかった)。
創作熱が一気に開花したのは、高校になってからでした。そして、ぼくの人生をその後ずっと呪い続ける(今も呪われている)経験も、この頃の事です。
当時、ぼくは「卓球部」「文藝部」「クイズ研究会(は、ほぼ名義貸し)」「演劇部(も結局出演しなかった)」を掛け持ちしておりまして、まあ「文藝部」にもっとも注力した訳です。
「文藝部」って、どんなイメージですか?
「ぼくヤバ」ですか? 「ドキドキ文藝部」ですか?
アニメや漫画、ラノベやASMRで描かれている「文藝部」の姿ですが「あながち間違っていない」ということだけ、伝えておきましょう。。。
ぼくの人生を呪い続ける経験は、高校1年生の時にやってきました。
文藝部所属ですので、やることと言えば「同人誌を作ること」です。同人誌を作るためには、作品を書く必要があります。というわけで、作品を書きました。
当時のぼくは、大江健三郎やヘルマンヘッセに傾倒しておりましたので、耽美的な文藝作品こそ至高でした。
いつ句点が置かれるのかわからないくらい長い一文(400文字以上を一文で書いたりしてましたね)。
広辞苑の重箱の隅をつつかなきゃ出てこないような難しい漢字(地域振興券で広辞苑買いました)。
そして、そこはかとなく描かれるエログロ(エロを臆面なく描けることに妙な価値を感じていました)。
そんなある日、中編小説をしたためました。
タイトルは「永遠の鎖」。読み方は「ときのくさり」です。
とある村を舞台にした、少年と少女の試練の物語でした。陳腐なものだったかもしれません。
原稿用紙100枚くらいの内容です。
せっかく書いたので、まあ何か投稿してみよう、ということになる訳です。
でも、前回の400枚ほどの熱量はありませんでした。
なので、A4用紙にびっちり文字を敷き詰めて、両面印刷。それを三つ折りにして、普通の郵便封筒に入れました。
やったことある方はわかると思いますが、A4用紙って郵便封筒より長いんです。だから、はみだしてしまうので、余白をハサミでチョキチョキと雑に切って、無理やり押し込んで投稿したのを覚えています。
どこに投稿したかって?
それは「文學界新人賞」でした。
文学に明るい方は、この新人賞を受賞した作品の多くが、そのまま芥川賞を受賞することをご存知かもしれません。
つまり、文壇への登竜門となっている賞なのです。
応募作品が大体1,500作品くらい。
若干16歳のぼくのこの時の結果がどうだったか、というと。。。
「2次選考突破」でした。
中間発表で、文學界(今も書店に並んでますよ)の誌面に、約50名の名前が掲載されます。で、2次選考を突破すると、名前の上に「◯」が表示されます。つまり、ぼくの名前の上には、あったんです。「◯」が。1,500名中の、15名に残った訳です。
心は逸りましたよね。だって、16歳ですよ?
当時、最年少の芥川賞受賞者は、平野啓一郎で、23歳でした。「日蝕」ですね。面白い本でした。その後、綿矢りさなんかが19歳で受賞する訳ですが、当時のぼくは、それよりも若かった訳です。
まあ、ぼくが今ここでこうしている、ということは、当然受賞できなかった訳なんですが。。。その時、同じ誌面に名前が載っていたのが、後に芥川賞を受賞する「モブノリオ」さんでした。
ニアミスでしたね(笑)
ちなみに、当時書いた「永遠の鎖」という作品は、ワープロ時代だったためフロッピーしか記録媒体がなく、すでにぼく自身も読むことができない(当時の同人誌を持っている人しか読めない)んですが、大人になって現代版長編に書き直した物はあります;^^
その後も、実は文学系の大賞では、何度か雑誌に名前が載ったことがあります。文學界新人賞は20歳の時に書いた作品でも名前がのりましたし、群像とかでも載ったような気がします。
でも、結局はだめだった訳です。
(もっと言うと、ラノベ大賞とかもちょくちょく選考が通っていくんですが、まあ、だめだった訳ですよ)
とはいえ、文藝部で出していた同人誌に掲載していた作品は比較的好評で、わざわざ「感動して泣いちゃった」と報告しにきてくれた同級生が何人かいました。
自分の作品で他人の感情(=体液)を揺さぶれる喜びは、この時覚えたのだと思います。
この「自分には、他人に体液を浸潤させる筆力がある」「受賞はできないまでも、芥川賞が手の届く範囲にあった」経験は、その後のぼくの人生を呪いました。
「自分は、できるはずだ」「でも、結果がでない」「自分は、できるはずだ」「でも、結果がでない」「自分は、できるはずだ」「でも、結果がでない」
ここにこうしているということは、やはりセンスがなかった、努力が足りなかった、ということなのかもしれません。
思う訳です。「このままの人生のスピード感では、死ぬまでに世に出ることができない(=多くの人の体液をほとばしらせることができない)」と。
さて、次回は、ぼくが筆を折ってからのお話をさせて頂ければと思います。もう少しでアニメDAOに辿り着くと思います。
(次回にへべく)




