
捨てられる野良猫は、我が家の猫ではありません。
それなのに、なぜその猫に餌をあげ、月の収入の2割もの去勢費用までだして、
猫の残された一生を生きさせようとするのか。
改めて考え、言葉を選んでみました。
うまい答えになっているかどうか自信はありませんが、興味があったら読んでほしいです。
私はイラストレーターだけでは食べていけないので、フルタイムの仕事をしています。
手取りは月10万円。お察しの通り、正社員ではありません。
そこからの2万円の去勢手術は正直きつく、
我が家の家計をストレートに圧迫させています。
養わなくてはならない(人間のほうの)家族に
了解をもらった上での手術ではあるが、言わせている感も正直あり、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
猫が捨てられることは、
この国では日常茶飯事の出来事。
でも、捨てられた猫にとっては、世界中でひとりぼっちにされた恐怖が
生半可ではないと想像します。
戦災孤児みたいなものではないでしょうか。
近頃、読んだ本に、ドイツのアウシュビッツの様子が書かれたものがあって
その一文を書かせていただく。
「ホロコーストによって迫害を受けた者たちは、財産も、住処も、尊厳も、名前も、命も、そして最後には存在も消された」とあり、胸をかきむしられます。
存在すらかき消される「命」とは、一体なんなのだ?と思うのです。
ユダヤ人は圧倒的な差別によって、その命を無価値以下のものとされ、殺されました。
では猫は?
猫と人間と一緒にするな、と言われることは百も承知ですが、
保健所に連れて行かれ「不要」とされた猫は、この日本で年に何千匹も、
ガス室で殺されます。
ナチスの所業と重なります。
違うならば、どこから、違うのでしょう。
そう、一体どこから?殺される猫と人間との差は?
私の頭の中で、一点に絞り込まれます。
無価値であること。
私ごとで恐縮ですが、
今年から、勤務する職場で、仕事量は変わらないのに、勤務時間を減らされ、減収に追い込まれました。
正社員は毎年給料があがっていますが、臨時職員は職務内容が同等でも減収。
労働組合を通してその処遇に対しての撤廃を求めていますが、簡単には戻らなそうです。
労働組合が「我々を人間扱いしていない」と憤慨して、はじめて気づきました。
そうか、我々は「人間扱い」すらされていなかったのかと。
そういうことすら気付けないくらい、私は今まで、そういう位置にいたよ。
じゃあ、私も猫と一緒じゃないか、と。
ああ猫よ。
この世界は、なんとも世知辛く、優しくない世界じゃないか。
お互い大変だ。同情するよ。
でも嘆くな、同士よ。
優しくされていないもの同士が身を寄せ合って、
この限られたスペースだけでも、そんなには悪くない社会を作って
互いに慰めあってもいいじゃないか。
そんなふうに思ったわけです。
人間扱いされていない人ひとりと、
存在すら認められていない猫いっぴき。
こんなにも小さな空間の幸福くらいあっても、いいじゃないか。
その小さな幸福に、私はなけなしの2万円を払う。
明日の飯はその時に考えよう。
お読みくださり、ありがとうございます。
支援いただいた方に多大の感謝を。





