
私が能登地震に関わるきっかけと物資支援をしていたころのお話をしたいと思います。
私が住む宮城県石巻市は、東日本大震災でもっとも死傷者数が多かった場所。災害ボランティアが縁で移住することになった私なので、2024年1月1日は、とても驚きました。1月1日は、フードデリバリーの仕事で仙台市にいました。東日本大震災のときと同じく、情報が混乱していたのを覚えています。そのまま仕事を続けていましたが、初動で救命活動に向かう県外の災害支援スペシャリスト(東日本大震災の繋がり)のSNS投稿などは逐一チェックして、現地の情報を得ていました。
1月初旬には石巻からも友人たちがトラックに物資を満載で支援に向かい、1月10日に現地から帰ってきた友人が能登半島緊急支援の報告会をやるというので参加させてもらいました。私は個人事業主で予定を空かすのできるので、いつか2週間くらい災害支援に現地入りするんだろうなとは思っていました。報告会の中で、友人の団体は2023年珠洲市の地震の支援で現地社協と繋がりがあり連携しながら活動していること、金沢までは物資が来ているが能登半島へ運ぶ人がいないとのことで、即決で行くことをきめトラックの手配をお願いしました。
1月17日に現地入りし、4トン車の箱トラックを相棒に物資配布をはじめました。当時、緊急車両や自衛隊以外は渋滞の原因になるので来ないで!という時期で移動に片道6時間を要していました。
その時の動きは、金沢出発前日に、金沢にある支援団体の物資倉庫などで荷物を積み込み。
金沢出発日は、早朝4時ころに出発、渋滞に巻き込まれたり、穴水で役場で休憩を挟みつつ、昼前に珠洲市に到着、物資を配りつつ車中泊。
翌日昼までに物資を配ったり物資ニーズを聞いて、夜に金沢に戻ってくる。
という、感じのスケジュールでした。
友人と一緒に活動した日 冬だったのでストーブを持って行った。

災害支援仲間からの要請で、畳運搬のお手伝いしたとき。
シャワー支援の手伝いと送迎支援開始!につづく。




