
なぜ大学生がボラバスという企画を行っているのかをQA形式で掲載させて頂きます。
キッカケと経緯
質問 :関西の大学生にとって能登半島はそれほど身近なものではないように思います。ボラバスを出すようになったキッカケとは?
恥ずかしい話、やりたい方向に進んだ成り行きなので、キッカケは無いように思います。
私が初めて能登半島に関わったのは、2024年2月でした。能登がやばいらしい、とボランティア仲間数人で車を借り、道の体をなしていない能登里山街道を真夜中に運転し、シャワー運営ボランティアをしました。
大学生のボランティアバスに関わることになったのは、5月頃でした。大学でボラバスを出そうという話がで、そこに経験者枠として招待されました。
以来何度か大学から出すバスに関わりました。
その中で自分の大学だけではなく、様々な大学から人を集めて、バスを実施したいと考えるようになりました。大学に縛られない、おおさか災害支援ネットワークでボラバスを出すようになったキッカケです。
なぜ続ける
質問 : ボラバスを出すには多くの時間と労力が必要です。どうして続けるのですか?
災害ボランティアを始めたのは偶々でした。行く仲間がいて、行く手段があり、時間があった、から行きました。
初めて現地に行って衝撃を受けました。一階がひしゃげた家屋、液状化で飛び出たマンホール、折れ曲がった信号機。教科書で阪神淡路大震災として見た惨状が、目の前に広がっていました。
衝撃を受けながら、どこか現実を受け入れられない中、行ったボランティア活動ではとても感謝されました。まだ向き合いたいなと思えました。
ボランティア活動を続けていく中で、ホームが出来ました。行くたびに、色々な知識を教えてくれる地元の人、お酒に誘ってくれるボランティアの先輩、どんどん良くなっていく街並み。
気づけば、この町と関わり続けたいと思うようになっていました。
ボラバスを出したら、地元の人は「地元が元気になる」と喜び、大学生は「災害とは復興とはを体験できる」、なんて最高なんだと思うようになりました。
今まで関わった人たちの為に、続けてきましたし、これからも続けます。
ボラバスでの目標
質問 : ボラバスで叶えたい目標はありますか?
ボラバスを続かせることです。
能登半島地震・豪雨災害から時間が経ちました。ですが、復興は住民が復興したと思って初めて復興するのだと思います。時間で決まるものではないです。
住民が望み、大学生が「災害・復興を知りたい」という限り大学生による大学生のためのボラバスを継続させたいです。




