
オレは10代から歌いはじめた。
20代のオレも歌っていた。
30代のオレも歌っていた。
そしてオレは40代になっても歌っていた。
・・・この先はどこまでやれるかはわからない。だけど、少なくとも「半生かけて」やってきたことだということには間違いない。
正直、世の中の日の目をみなかった時間のほうが遥かに長い。苦節も挫折も人並み以上にある。たぶん人の何倍かは音楽に挫折してる自信はある。
それでも、音楽はずっとオレの中の一番のコアでありつづけた。
一番情熱も、時間も、お金も、たぶん持てるものをかなり捧げて付き合ってきた表現だ。
一度、幕を下ろして自ら手仕舞いした活動をひっくりかえし、今回、復活ということで宣言をして、Zepp新宿でのワンマンライブに挑んだ。
活動再開にあたり、ずっと大きな問いとして自分の中で鳴り続けていた言葉こうだった。
「どんな顔をして、どんなことを歌えばいいだろう?」
その問いが終始頭の中にいつづけた。
何度も反芻するように、自問自答した。
だってオレ一人が復活しようが、しまいが、セカイはきっと変わらない。
たぶん、そんなことはどうでもいいことなのだろうとも思う。
建付けであるにせよ、本音であるにせよ。
オレが自身の活動をどう設定したとしても、たいした違いはこの世に生まれないのかもしれない。
でも、少なくとも一度引っ込むという決断をした以上、
再び表舞台に立つには、自分なりに自分で納得できる理由も意味も、意義も見出したかった。
そこに1年9ヶ月、ごく一部を除いてほぼ完全に黙した形で音楽活動再開に向けて格闘してきた。
その時間の多くはとんでもなく内的な時間だ。
静けさの中で。あるいは孤独か孤高かわからぬけども、たった一人の領域の中で散々七転八倒するような葛藤を経てようやく外に対して自分も納得できるテーマを掲げることができたように思う。
見定まってからも格闘は続いた。
自分自身の過去を超えないといけない。
そんな挑戦でもあった。
そうでもなければまたステージに立つ理由を自分自身が見いだせなかったというのがとにかくある。
必死でそこと向き合った。
1年9ヶ月。
一度ゼロになったところから、再び新しい創造に向き合い続けた。
*
そして迎えた初お披露目の舞台。
Zepp Shinjuku TOKYO。
たぶん現代のミュージシャンなら一度は立ってみたいステージなんじゃなかろうか。
渋公をやった自分でもZeppにはなんだか特別な憧れがある。
再び挑むのに相応しい会場だ。
渋公のときは1年近くの準備期間があったけど、
今回は本当に突貫工事。
リハーサルは新メンバーと7月から5回。(うちフルメンバーでやれたのは3回…)
告知を開始したのも8月末。1ヶ月を切ってからのこと。
音的に、今回のセトリをようやく全てを通せたのは9月10日。
旗ができて納品されてきたのは前日。
映像が仕上がったのも前日(というか当日)の夜中。
フライヤーが刷り上がったのは当日の朝。(当日夜中までデザイン作業をしていた!)
グッズのTシャツもうちに送付では間に合わないため当日、会場に納品というギリギリ加減。
・・・1つ崩れたら成立していなかったくらいヒリヒリするようなことの連続の攻防戦だった。
なんちゅうか、まあよく崩壊しないでやりきれたなと思う。
たった一日の舞台は、露の命、あるいは泡沫の夢。
短期間ながらも、自分がタッチできる限界までいろいろなディテールにもこだわった。
全てに手を抜かない。
セルフプロデュースの限界を見せる。
これはオレの舞台づくりの自分への無言の約束だ。
どんなのに来たとしても必ず全力を注いだステージをお見せする。それができなかったらオレがやる意味がないかなって思うし。オレができる全力を見せなければ来てくれる人にも申し訳ない。それは今回も自ら課してやったつもり。
あと、オレの自慢は付き合いが馬鹿みたいに長いことかな。
今回バンドメンバーは半数がレコーディングメンバーに入れ替え、ぐっと若返り大半が自分よりも年下の若いチームに生まれ変わった。(はっきり言って最高のチームだった!)
同時に、長いも長い付き合いの人たちとの混合チームでもあった。
例えば、バキバキに決め込んでくれる照明は2013年のデビュー当時からずっと一緒にやっているし、今回久しぶりにVJに入ってもらったんだけど、その彼も彼が18〜9歳のときからの付き合い。
ギターのあべちゃんやキーボード/マニュピレーターの岩戸さんなんかもオレがまだ20代の頃からの付き合い。かれこれ今年で13年目の付き合いになった。
グッズやポスター、フライヤーなどの制作物をやっているデザイナーの響子にいたってはもはや17年以上になる。出逢ったときにはお互い20代中盤だった。
今回来てくれたお客さんの中にも10年〜20年選手で応援してくださっている方がザラにいたし。
今回あたらしく来てくれた人も、
ずっと見ててくれる人も…
様々な時空の撚り糸を1つに束ねるように、同じ空間で、同じ時間を共有できたことがほんとうに嬉しい。
音楽なんて、今日び本当に必要なものか?と問われれば、きっとどんどんその比重は下がる一方で、もはやあってもなくてもいいんじゃない?くらいの存在感になりつつある気がしなくもない分野だ。
実際にCDや音源のDL販売の数は死ぬほど下がっている。
変な話だが週によっては数千枚のアルバム販売数でオリコン1位になるときだってある。DLにいたっては200DLでオリコントップ10まで入ることすらある・・・!
つまり、そのくらい音楽というものはいま売れない。
そんな時代の中で歌い続ける理由を求めるとすれば、
やはりそれは音楽でしかなしえないものの存在。
それを信じているし、それにかけてみたいという想いでしかない。
自分にとって一番だいすきなもので、
一番どうにもならなくて。
だからきっと今日も歌い続けている。
そんなふうに思うんだよね。
みんなも、大好きなものに率直に、そのきもちを育てて、誰かに手渡していってあげてみてください。
たぶんそれができたとき、少しだけ今生ってやつを認められる。そんな気がするんだよ。
原田は、これにて一応再起動・再始動の狼煙が上がりました。
ただ、あくまで前哨戦に過ぎません。
ほんとうの闘いは、あとほんの少し先(たぶんだけど10末〜11末とか?)の
アルバムの本リリースのときです。
そのときにオリコン1位を目指してアタックをかけます。
大きな山だっていうのはよおくわかってます。
だって、子供の頃、テレビでみてた音楽ランキングの1位みたいなところにリストされにいくわけですよ。
自分ができるなんて夢にも思わない世界に挑んでみるってのが今回の挑戦なわけです。
マジで、どこまでいけるかわかりません。
もちろん全力でやるつもりなのだけれども、
はっきり言って未知の世界です。
かなり無謀なこと言っているような気もうっすらしてます。
もしかしたら全然ダメで、かすりもしない可能性だって大いにあるし。(というかそっちのほうがありそう)
でも、その山を登ってみるというアタック自体が、たぶん1つの轍になると思うんですね。
*
いま、世界は混濁していて、境界線は淡く、途方もなく入り乱れています。
何が正しいかも、何があるべき姿かもよくわからなくなってきている。
ほんとうのことがなんなのか、どういうことがいいことなのか。
そんなことすらもぼやけてくるほどに、ぐにゃんとしてぼんやりとした感覚になってきます。
そんな中で、沢山の人たちが今まで交わりようがなかった異世界と握手を経験しています。
インターネットなんて、まず触ることがなかったような街場の職人さんが、自らインスタで情報発信をしていたり。どう考えたって偉いし、すごい人たちがYouTubeにカジュアルな姿で登場して、語りかけていたり。
私の今回のライブにも、80歳を超えたおばあちゃんが参加していたんだけど、
若者に混じってペンライト振り回してジャンプして叫んで応援しててくれてるんですよ!
なんつうか、こういう光景って、少なくとも私がインターネット世界で活動を始めた20年前ってなかったです。
気がつくと世界は変わっていた。
そして、もう不可逆な地点まで来てしまったのかもしれない。
気づくと、AIが人間の領域をリプレイスするようになっていて、業界のプロフェッショナルたちももはや白旗をあげて認めざるをえない領域まで拡張侵食してきました。
そんな中で、私はやはり、このインターネットの世界でたぶんこの国で、最も早くその可能性を信じて、
「ここでやってやるぜ!」と決めて臨んだ日本の最初の世代だと自負しています。
なんせ、ネットがまだナローバンドな時代の10代のときからそれを信じて活動してますから。わしゃ、誰もネットで情報発信なんてしていない時代から今と同じようにやってるんです。
活動自体は2003年から。そしてちょうど20年前の今頃が、メルマガをスタートした時期でした。
2005年9月。忘れもしない、はじめて「原田翔太」として自分の名前で発信をはじめた瞬間だったのです。
そういう人間として、この世界の文法や文脈がやがて、マスと融合し、「当たり前」になる世の中が来ると信じていました。
そして、結果、もはやそうなったのではないかと思っています。
インターネットが、現実世界の写像であった時代は過ぎ去り
もはやインターネットこそが現実そのものになってしまった。
そんな感覚すら覚えます。
その時代の証明として、かつて私はインターネット世界から飛び出してメジャーデビューを果たしました。
その時点まで全く音楽と接点がなくなっていた非アーティストが、いきなりオンラインの力でメジャーリリースまでいった、国内における第一号案件だと思います。
今回の挑戦というのは、そこから次の時代です。
人生100年時代だ云々言われますけど、実態は60代から認知症で要介護みたいな人もいるわけですよ。
そういうこと言っている人に限って100歳まで生きれずに死ぬ人とかもいるわけです。
所詮幻想に過ぎません。
そして不確定なものでしかない。
でも、何もしないで生きるにはあまりに長すぎる。
でも何かを成し得るにはあまりにも短すぎる。
最近殊にそのように思うんですね。
──ならば、この生命をどこに運んでいくのか
そう思ったとき、やはり最善は、死ぬときに後悔しない生き方というものを自己決定してそこに邁進することしかないんだろうなって思ったんです。
例えば、音楽がそれならば私のように41歳から再びメジャーシーンに挑んでみたらいい。
もし小説を出したいと思っていたなら、筆を取れ。もう一度書けばいい。いつからでも遅くはない。
絵なんだったらいいんだよ。オレの知り合いの大成功してひと時代を築いたおじさんはじいさんになってから絵の学校に通ってなんか画家活動をはじめている。
なんでかしらんが、突然寿司を握り始めたオンラインビジネスの達人みたいな人もいるし。
それが何でもいいと思うんだ。
オレの仲間で一緒に会社をやっているムッシュ大北なんかは、会社経営をしながらサッカーチームに所属してアマチュアだけども選手活動を再開した。
そういうふうにして、自分の生命を燃やして、捧げる。
それがなんでもいいと思うんだ。
みんな、オレたちは1人1人生命の記号、指向性というものがある。
その人がどう生きるかというのはその人のものだ。
でも、少なくとも、その背中を押すこと。
「そうか!そんなことしてもいいんだ!」という発見が、きっかけになるかもしれない。
だからオレ自身は今回オリコン1位という山に登ってみることに決めて、今それに挑んでる。
みんなもみんなの、のぞむ未来に向かっていってほしい。
今回は、そんな船出に立ち会ってくれてありがとう。会場に来た人には直接伝えたと思うけど、来ていない人にも言っておきたいから筆をとってみた。
*
もうこれで、大きなステージでのライブっていうのは、しばらくまたなさそうな気がしているんだけど(やるの大変すぎて)それでも私のことだから、きっとまたいつかがあるような気もしています。笑 ←完全に未定ではあります。
その日がいつになるかはわかりませんけど、もしその日がきたらまた遊びにきてください/そのときは遊びに来てください!
ひとまず、大きな再始動の儀式、祭りが一区切りです。
そしていよいよオリコンへの挑戦に向けて、ここから始めて走っていきたいと思います!!!!!
あらためまして、ここまで力を貸してくださったみなさん本当にありがとう。
直接立ち会いに来てくれた方は言うまでもなく最大限の感謝です。
会場にお花を添えてくれたり、たくさんの人たちに声をかけて連れてきてくれたり、遠方から労をとって来てくれたり、都合や諸事情をなんとかして駆けつけてくれたり・・・もう今回だけでも無数の祈りの力、もらいました。
オレももっとがんばるね。
ここからまたやっていきます。
これからもよろしく!!!!!
原田翔太






