
フェルメールの作品を年代順にじっくりと眺めていると、あるひとつの面白い事実に気が付きます。
それは、彼にとっての「赤」という色彩の扱い方の変化です。
── 画面から消えていった「赤」の謎
『取り持ち女』などの初期の作品では、画面の中に情熱的な赤い上着やカーテンが大胆かつ鮮やかに使われています。
『取り持ち女』(1656)フェルメール 出展:wikimedia
ところが、1660年代半ば(まさに本作が描かれたとされる時代)以降になると、フェルメールの画面の中で「赤」が占める面積は、まるで引き潮のように少しずつ減っていくのです。
現在修復を進めている『真珠の耳飾りの少女』でも、画面を大きく支配しているのはお馴染みの「青(ウルトラマリン)」、そして「黄色」と「白」です。
では、フェルメールは赤に興味を失ってしまったのでしょうか? ──デジタル上で極限まで拡大し、ひび割れを取り除きながら彼女の顔を見つめていると、まったく逆の答えが見えてきます。
── 命を吹き込む、最後のひと筆
この作品において、赤はごく限られた場所にしか使われていません。 少女の瑞々しい唇、そして肌の血色(チーク)。
しかし、修復作業でピクセル単位まで拡大して見ていると、このわずかな赤は決して脇役などではないことが分かります。むしろ、「少女に生命感を与えるための、最後のひと筆」として、驚くほど計算し尽くされた強烈な存在感を放っているのです。
青と黄色が、画面全体の静けさと美しい調和をつくり、
白(真珠や瞳の光)が、差し込む光のドラマを与え、
最後の赤が、少女の肉体に温かい命を吹き込む。
面積を大きく広げるのではなく、ここぞという一箇所に絞って最高の赤を置く。細部を見れば見るほど、フェルメールは色を「たくさん使う」のではなく、「必要な場所、そこにしかない一点だけに命を宿す」圧倒的な引き算の画家だったのではないか。修復の手を動かしながら、そんな気がしてならないのです。
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修正はターバンはの部分、筆後を残すように丁寧に



