『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

『なぎのえき』は、佐賀県唐津市の無人駅を舞台にした、写真と音声(オーディオドラマ)による没入型アートプロジェクトです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる2つの回復ツールをお届けします。 聴く避難所(オーディオドラマ) 飾る避難所(電子書籍フォトブック)

現在の支援総額

37,000

1%

目標金額は2,500,000円

支援者数

6

募集終了まで残り

31

『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

現在の支援総額

37,000

1%達成

あと 31

目標金額2,500,000

支援者数6

『なぎのえき』は、佐賀県唐津市の無人駅を舞台にした、写真と音声(オーディオドラマ)による没入型アートプロジェクトです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる2つの回復ツールをお届けします。 聴く避難所(オーディオドラマ) 飾る避難所(電子書籍フォトブック)

トライアングル の付いた活動報告

誰も来ないはずの旧校舎。その立ち入り禁止の屋上へと続く、非常階段の踊り場。そこが僕と栞の隠れ家だった。 本来なら無機質なコンクリートの空間には、不釣り合いなベニヤの壁とチープなドアが後付けされており、外界から隔絶された簡易的な密室として機能していた。擦りガラス越しに差し込む初夏の陽光が、空気中を漂う微かな埃をスノードームのようにきらきらと輝かせている。光の帯が斜めに切り取った薄暗い部屋の片隅で、僕は安っぽい化粧板の机とパイプ椅子に腰を下ろしていた。 手元にあるのは、黒いハードカバーのノートと万年筆。そこに綴られているのは、事実という名の安全なレールの上を走るだけの、ひどく退屈なダイヤグラムの羅列だった。「彼が次にどう動くのか、楽しみね」隣に座る栞が、静かに微笑みながらノートのページを覗き込んでくる。 「ここでさ、主人公の心情とか入れたら、この後の展開がもっとエモーショナルになると思う」その助言は、ベテランの編集者が投げる的確で柔らかなパスのようだった。決して僕のプライドを傷つけず、ひとつの素敵な「提案」として手渡されるから、不思議と嫌な気はしない。 栞は、自分にゼロから物語を生み出す才能がないことを自覚していた。決められたルールを守ることや、与えられた枠の中を美しく整えることは得意だが、「自由に」と言われると途端に立ちすくんでしまう。雑誌編集者である両親の仕事ぶりを幼い頃から見てきた彼女にとって、それは極めて自然なスタンスだった。 だからこそ、こうして僕の世界に介入し、その輪郭を美しく校正していくことに静かな幸福を感じていた。微かなカビの匂いがするこの薄暗い密室の扉が、永遠に閉ざされてしまえばいい。そんな栞の密やかな願いを、僕はまだ知らなかった。「なにこれ。安全なレールの上を走るだけの、つまんないお話」重たい鉄扉が、突然暴力的な音を立てて開け放たれた。 眩暈がするほどの強烈な初夏の光が、淀んだ空気を一瞬で薙ぎ払いながら部屋の中へと雪崩れ込んでくる。逆光の中に立っていたのは、1年生のなぎだった。彼女は肩で息をしながら、少し得意げに笑っていた。入学早々から下心を持った上級生男子や好奇の視線に付きまとわれていた彼女は、その退屈なノイズから逃げ回るゲームの果てに、この秘密の場所に辿り着いたらしい。僕たちを見下ろすなぎに対し、栞は少しも動じなかった。制服のポケットから綺麗にアイロンのかかった清潔なハンカチを取り出すと、言葉もなくすっと差し出す。なぎは少し驚いたように瞬きをした後、ひったくるようにそれを受け取り、額に浮かんだ汗を拭った。そして、ノートを覗き込んだ彼女の口から飛び出したのが、先ほどのあっけらかんとした残酷な評価だった。 万年筆を握ったまま言葉に詰まる僕の横で、栞が静かに口を開く。「彼の物語は、これから面白くなるのよ」それは僕の凡庸さを無条件で肯定し、守り抜こうとする、ひどく現実的で温かい庇護だった。しかしなぎは、栞の言葉を聞いて悪戯っぽく口角を上げた。「私が面白く導く」彼女は僕の目をまっすぐに見据え、指先でノートの真新しいページをトントンと叩いた。「じゃあ、あたしをヒロインにしてよ。そうしたら、毎日ここへ逃げてきてあげる」それは、僕の退屈で静かな世界に、予測不能な乱気流が吹き込んだ瞬間だった。それから数日後の放課後。 空は急激に紫がかった鉛色に沈み、バケツをひっくり返したような土砂降りの通り雨がグラウンドを激しく叩きつけていた。熱を奪われたアスファルトからは、むせ返るような雨の匂いが立ち昇り、薄暗い昇降口には、水溜まりに乱反射する青白い光だけが揺れている。昇降口には僕と栞の二人だけ。僕の手には、大きなビニール傘が一本だけ握られている。相合い傘をして帰るべきか、雨が上がるのを待つべきか。僕たちの間には、言葉にしない微かな好意と、高校生特有のひりつくような緊張感が漂っていた。「せんせー!しおりん!」重たい雨のカーテンを引き裂くように、グラウンドの向こうからなぎが走ってきた。 傘もささず、全身ずぶ濡れになりながら、彼女の右手にはなぜか泥だらけの硬球が握りしめられている。激しい水しぶきを上げて昇降口に飛び込んでくると、なぎは犬のように頭を振って髪のしずくを弾き飛ばした。「風邪を引くわよ。バカね。それに上級生に『しおりん』はやめなさい」 栞は呆れたように言いながらも、自分のスポーツタオルをなぎの頭からすっぽりと被せ、泥の跳ねた頬を丁寧に拭き始めた。「いたずらなワンちゃんね」 栞の細い指先には、世話を焼くことに対する迷いのない確かな母性があった。なぎは大人しく拭かれながら、「ありがとう、お母さん」と無邪気に笑う。「お母さん言うなっ」そしてなぎは、わざと泥のついた手で、僕の真っ白なシャツの袖を強く掴んだ。「ねえ、私も傘に入れてよ」 「三人で!?」 「くっつけばイケる」「そ、そうね。皆で濡れるよりいいかもね」結局、僕が真ん中で透明なビニール傘の柄を握り、右に栞、左になぎが入ることになった。 右の肩: 栞の制服から漂う微かな柔軟剤の香りと、彼女の確かな平熱が伝わってくる。それは僕の日常を温め、優しく肯定してくれる、紛れもない「現実」だった。 左の肩: なぎの纏う冷たい雨の匂いと、生々しい土の匂いがした。冷え切った肩を僕に押し付けながら、僕の退屈な日常を容赦なく泥で汚してくる、圧倒的な「非日常」そのものだった。 激しい雨だれの音が、狭いビニールのドームを絶え間なく叩き続けている。 現在を温めようとする栞と、僕の世界を壊しにくるなぎ。僕は全く性質の異なる二つの引力に挟まれ、一歩も身動きが取れなくなっていた。けれど、不思議と居心地は悪くなかった。 僕がファインダー越しに世界を傍観し、栞がそれを優しく縁取り、なぎがそのフレームの中に泥だらけのスニーカーで踏み込んでくる。光を失った土砂降りの雨の中、二つの体温と匂いに挟まれた瞬間。僕たち三人の奇妙で残酷なトライアングルは、絶対に壊れることのない完璧なダイヤとして、確かに固定されていた。


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