『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

現在の支援総額

48,000

1%

目標金額は2,500,000円

支援者数

8

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/23に募集を開始し、 8人の支援により 48,000円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

現在の支援総額

48,000

1%達成

終了

目標金額2,500,000

支援者数8

このプロジェクトは、2026/06/23に募集を開始し、 8人の支援により 48,000円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

エンタメ領域特化型クラファン

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深夜二時。 窓ガラスをびっしりと覆う水滴が、外のネオンを滲ませては幾筋もの光の線を流していく。 ここは都内の出版社、第三編集部。ヤニで黄ばんだ壁紙と、沈殿するタバコの煙、そして絶え間なく鳴り響くタイピングの乾いた音が、この密室を巨大な野戦病院のように仕立て上げていた。私はデスクの隅で、冷え切った缶コーヒーの底をこめかみに強く押し当てた。 「水野、この赤字直しておいて。朝イチで印刷所戻すから」 背後から投げ捨てられた校正紙(ゲラ)の束が、どさりと音を立てて山積みの書類の上に崩れ落ちる。 「……はい。すぐやります」 ひび割れた唇を舐め、私は明滅するパソコンのモニターへ再び向き直った。出版社に入れば、彼の一番近くにいられる。そう信じて疑わなかった。 彼はいつか必ず、作家としてデビューする。あの繊細で、時折ひどく残酷なまでの透明感を持つ彼の言葉たちが、この雑音だらけの世に出ないはずがない。 その時、彼の原稿を一番最初に受け取るのは、私でありたい。彼が命を削って生み出した物語に、私が「編集者」として伴走し、一冊の美しい本に仕立て上げる。そして、一番綺麗な装丁のそれを、私の手で彼に渡すのだ。そんな途方もなく重く、狂気じみた私の「愛の計算」が、私をこの地獄へと突き動かした。けれど、現実は計算を遥かに超えて無慈悲だった。 来る日も来る日も他人の粗削りな文章を削り、気難しいライターに土下座し、理不尽な締め切りという名の泥濘を這いずり回る日々。彼に見せるためにあんなに時間をかけて選び抜いた、計算ずくの戦闘服(スーツ)は、今や汗と埃にまみれた重い枷となり、丁寧に仕込んでいたはずの「隙のないメイク」は、徹夜明けの脂でドロドロに崩れ落ちている。ふと、スーツのポケットの奥で、骨を伝うような低い振動を感じた。 『ジーッ、ジーッ』弾かれたように引き出しを開け、傷だらけになった二つ折りの携帯電話を引ったくる。 親指でパカッと開いた小さな液晶画面。緑色の無機質なバックライトが、暗いデスクの下で私の青白い顔を照らし出す。 そこには、たった一行。『着信アリ:1件』彼からの、不在着信。「……っ」 息を呑むと同時に、喉の奥から鉄の味がした。無意識のうちに、口の中の粘膜を強く噛み破っていたらしい。 あと五分、いや、三分早く気づいていれば。あの無駄な電話応対を後回しにしてさえいれば、彼と話せたのに。彼がいま、どんな声をして、どんな夜の空気を吸いながら私に電話をかけてきたのか、知ることができたのに。液晶画面に表示された彼の名前を見つめていると、ささくれ立った心に一滴の甘い蜜が落ちたような温かさが広がる。しかし次の瞬間、電話に出られなかったという激しい悔しさが、黒い泥のように胃の底から這い上がってきた。 今の私は、彼に声を聞かせられるような状態じゃない。余裕なんてなくて、彼を惹きつけるための「大人の女の鎧」は、どこにも見当たらないのだから。 *「水野、これ来月の巻頭特集。お前に責任者(デスク)任せるから」翌朝。容赦なく差し込む蛍光灯の白い光の下で、副編集長が分厚い企画書をドンと私の前に置いた。 入社して初めて任される、大きな企画。普通なら飛び上がって喜ぶべき栄転だ。ここで結果を出せば、文芸の単行本編集部への異動も見えてくる。彼を迎え入れるための、私の緻密な城づくりが、また一歩前進するのだ。「……ありがとうございます。必ず、やり遂げます」私は、胃酸の込み上げる感覚を無理やり飲み込み、完璧な作り笑いを浮かべた。 やらなきゃ。頑張らなきゃ。すべては、彼のために。しかし、その日を境に、私の「変調」ははっきりと輪郭を持ち始めた。最初は、ただの立ち眩みだった。 それが次第に、紙の匂いを嗅いだだけで猛烈な吐き気が襲うようになった。ゲラ刷りの上に並ぶ明朝体の活字が、まるで黒いゲジゲジのようにうごめいて見え、赤ペンを握る右手が痙攣して止まらなくなる。 眠らなければいけないのに、泥のようにベッドへ倒れ込んでも、脳の裏側で印刷所の輪転機が回るような「ゴウン、ゴウン」という轟音が鳴り響き、一睡もできない夜が続いた。シャワーを浴びれば、ごっそりと抜け落ちた髪が排水溝を黒く染めた。そして何より私を狂わせたのは、四六時中、ポケットの中で携帯電話が震えているような錯覚——「幻振動(ファントム・バイブレーション)」だった。会議中にも、トイレの中でも、満員電車の中でも。 『ジーッ、ジーッ』 そのたびに私は血相を変えて携帯電話を開く。しかし、そこには何の着信履歴もない。 彼からの連絡を渇望するあまり、私の神経はついに幻覚を作り出すようになってしまったのだ。携帯のプラスチックの感触が、まるで皮膚の下に埋め込まれた異物のように、私を内側から蝕んでいく。 *土砂降りの雨の夕方。 入稿作業のトラブル処理を終え、私は誰もいない地下の資料室で、冷たいコンクリートの床にうずくまっていた。 カビと古い紙の匂い。換気扇の回る低い音だけが、耳鳴りのように響いている。限界だった。体は鉛のように重く、視界の端が黒く欠け始めている。その時だった。『ジーッ、ジーッ』まただ。 どうせまた、私の狂った脳が作り出した幻だ。 無視しようとした。目を閉じて、膝を抱え込んだ。けれど、震えは止まらない。物理的な重みを持ったその振動が、太ももの皮膚を正確に叩き続けている。這うようにしてポケットから携帯を取り出し、ゆっくりと開いた。 薄暗い資料室の中で、緑色のバックライトが眩しく光る。『着信:彼』幻じゃ、ない。 本当の、彼からの電話だ。「……あ」 ひゅっ、と喉が鳴った。通話ボタンを押そうと、親指を伸ばす。 しかし、その親指が空中で完全に硬直した。信じられないほど小刻みに震え、わずか数ミリ先のボタンに届かない。——もし今、彼が出て、「どうしたの、声が変だよ?」と聞かれたら? ——ボロボロにすり減った今の私の惨めな姿を、この掠れた声色から悟られてしまったら?資料室の黒塗りの窓ガラスに、一人の女の顔が映っていた。 目の下にはどす黒いクマが張り付き、髪は乱れ、頬は痩せこけ、幽鬼のように虚ろな目をした女。それが、今の私だった。 「大人の余裕」なんて微塵もない。緻密に計算された「完璧な女」の面影など、どこにもない。呼吸が、できない。 過呼吸の発作が起き、酸素が肺に入ってこない。手足の先から急速に血の気が引き、痺れが這い上がってくる。出たい。声が聞きたい。今すぐ彼に「助けて」と泣きつきたい。 でも、できない。私は彼を導く、完璧な編集者でなければならないのだから。彼を失望させるくらいなら、死んだほうがマシだ。『ジーッ、ジーッ』無機質な緑色の光が、私の歪んだ顔を残酷に照らし出し、やがてふつりと途絶えた。 画面は「不在着信」の文字を残して真っ暗になり、資料室は再び静寂と暗闇に包み込まれる。「……あぁ……っ、ああぁっ……!」声にならない嗚咽が、コンクリートの壁に反響した。 私は真っ暗になった携帯電話を胸に強く抱きしめ、冷たい床に顔を押し付けて泣き崩れた。 彼のために着込んだはずの重い鎧が、今は私自身の息の根を止めようとしている。それでも私は、この鎧を脱ぐことができない。自らが組み上げた緻密な愛の計算式に、私自身が押し潰されていく。地下室の天井越しに響く鈍い雨音に混じって、彼に会いたいというどうしようもない絶望だけが、私の体を静かに、確実に蝕み続けていた。過呼吸は一向に治まる気配を見せなかった。 私は、呼吸さえ満足にできなくなっていた。冷たいコンクリートの床に這いつくばり、口を大きく開けて必死に酸素を求めようとするのに、喉がひゅくひゅくと痙攣するばかりで、空気さえ取り込めない。視界の端から黒い染みが広がり、意識の輪郭がドロドロと溶け出していく。限界を超えた身体が、ついに決壊した。 こんな沈没寸前の身体から、ネズミたちが我先にと逃げだすように、激しい吐き気が内側からせり上がってきた。「……ッ、げほっ……ぁ、あ……!」胃の底から込み上げる激しい痙攣と共に、何度も嘔吐を繰り返す。 けれど、ここ数日まともに食事すら摂っていなかった胃には、もう吐き出すものなんて何も残っていない。ただ苦い胃液が喉を焼き、幾重にも塗り重ねてきたはずの私のプライドを、ボロボロになったスーツを、無惨に汚していくだけだった。指先から体温が消えていく。 私はもう、このまま「人間」として存在できないのだろう。 彼を導く完璧な編集者でも、大人の余裕を持った女でもなく、ただの惨めな肉の塊となって、この埃っぽい地下室で朽ちていく。 自嘲する気力すら湧かない。ただ、薄れゆく意識の中で、ぼんやりとそう思っていた。——その時だった。ガンッ、ガンッ、ガンッ!!突如、鼓膜を破るような激しいノックの音が、密室のコンクリートに反響した。 ビクッと肩が跳ねる。誰? こんな時間に。 返事をする声すら出せない私の沈黙を裂き、重い鉄のドアが、軋むような音を立てて乱暴にこじ開けられた。「——栞!!」廊下から差し込む蛍光灯の白い光が、刃のように暗闇を切り裂いて床を這い、這いつくばる私の無様な姿を容赦なく照らし出した。逆光の中に、ひとりの男のシルエットが立っていた。 ひどく雨に濡れた髪。傘も差さずに走ってきたのだろう、水滴が顎をつたい、肩で激しく息をしている。その輪郭を網膜が捉えた瞬間、止まりかけていた私の心臓が、肋骨を砕くほどの勢いで跳ね上がった。幻覚だ。また私の脳が狂ったんだ。 だって、そんなはずがない。彼がここにいるはずがない。 けれど、床にうずくまる私を見下ろし、息を呑んだその瞳は、幻覚よりもずっと生々しく、痛いほどの熱を帯びていて。この世界で、誰よりも、もっとも会いたい人が。 私が一番見せたくなかった、最も醜く、鎧を剥ぎ取られたこの絶望の底へ——真っ直ぐに、ドアをこじ開けて入ってきたのだ。


休日の午後三時。 フローリングの床には、窓枠の形に切り取られた細長い西日が落ちている。光の帯の中を微小な埃が静かに舞い上がるのを、私はベッドに体育座りをしたまま、ただじっと見つめていた。いや、正確には違う。 私の視線の先には、両手で固く握りしめたプラスチックの塊——無機質な緑色のバックライトが鈍く光る、携帯電話の小さな液晶画面があった。カチッ、カチッ。静まり返った部屋に、親指で物理ボタンを押し込む硬いプラスチック音だけが等間隔に響く。 画面に表示されているのは、彼とのメールの保護フォルダ。三日前に交わされた、業務連絡のような味気ない数行の文字。スクロールする度に残像が尾を引くモノクロの液晶画面を、私は親の敵のように睨みつけていた。——彼に、何気ないメールを送りたい。ただそれだけのことが、私にとっては国家の一大事だった。 「やっほー!ひま?」なんて、あの泥棒猫(なぎ)のように本能のまま親指を躍らせることができるなら、どんなに楽だろう。でも、私には無理だ。そんな隙だらけの文章を送れば、「どうしたの? 熱ある?」と本気で心配されるのがオチである。目を閉じると、私の脳内に重厚なマホガニーの扉が現れる。 ガチャン、と重い音を立てて扉が開き、スポットライトに照らされた円卓に、三人の私が召集された。 【議題:彼への自然かつ魅力的なメール送信について】議長・栞(クールな表層)が、冷たい光を反射する眼鏡を中指で押し上げ、口を開く。 「諸君。今回の目的は、あくまで『何気ない日常の共有』から『自然なラリー』を生み出し、最終的に次の約束を取り付けることです。ガッツいていると思われてはいけません。テーマは『たまたま思い出したから連絡してみました』感。以上」戦略家・栞(データと計算の鬼)が、分厚いファイルを机に叩きつけながら身を乗り出す。 「彼の過去一ヶ月のメール受信・返信履歴をクロス集計した結果、休日の15時から16時の間は、送信から返信までの速度が平均12分と最も早い『ゴールデンタイム』です。現在15時15分。好機です。文章は重くならないよう30文字以内、句読点は少なめ、顔文字はあえて無難な『(^_^)』一つに留め、大人の余裕を演出しましょう」情熱の栞(愛が重すぎる本音)が、パイプ椅子を蹴り飛ばして叫ぶ。 「まどろっこしいわね! 『今何してるの? 私はあなたのこと考えてた! 会いたい!』でいいじゃない! なぎがいない今こそ、愛をストレートにぶつけるべきよ!」「長文は重い!!」「却下!!」 議長と戦略家の鋭い声が暗闇の脳内に木霊する。 「そんな重装甲なメールを送ったら、彼が引いてしまいます! 隙です、私たちに必要なのは『計算された隙』と『返信しやすいフック』なのです!」そこから、血を吐くような文章作成委員会が始まった。現実の世界では、床に落ちていた四角い光の模様が少しずつ形を変え、部屋の奥へと伸びていく。 カチ、カチ……ピーッ(クリア音)。 あーでもない、こーでもないと文字を打ち直すたび、親指の腹にはボタンの跡が赤く食い込んでいた。『今日、駅前に新しいカフェができたんだけど、知ってる?』 ——ダメだ。これでは「知ってる」か「知らない」で会話が終了するリスクがある。クリアボタンを長押しする。文字が次々と消去される。『いま〇〇の近くにいるんだけど、時間ある?』 ——誘いが唐突すぎる。断られたときの私のメンタルがもたない。携帯を握る手は汗ばみ、息は浅くなっている。たかが数十文字の文章に、すでに二時間半が経過していた。窓の外は、いつの間にか燃えるような琥珀色から、深い群青色へと沈みかけている。そしてついに、三人の私が固い握手を交わす「奇跡の一文」が完成した。『お疲れ様。前言ってた映画、来週からだね。もし予定空いてたらどうかな? 暇なときでいいんだけど(^_^)』完璧だ。 「前言ってた」で共通の話題を提示し、「どうかな?」で疑問形にして返信を誘発。さらに「暇なときでいい」と保険をかけることで、ガッツいている感を完全に相殺している。控えめな顔文字が、たまらなくクールで大人っぽい。「よし……っ」私は乾いた唇を舐め、深呼吸をした。 震える親指を、決定ボタンの上に乗せる。少しの躊躇いの後、グッと押し込んだ。画面にピコピコと『メール送信中…』の文字が点滅し、小さなピクセル画の封筒が画面の右から左へ飛んでいく。やがてポーン、という気の抜けた送信完了音が部屋に響いた。やり切った。 私はパタンと二つ折り携帯を閉じ、それを祈るように胸に抱きしめながら、仰向けにベッドへ倒れ込んだ。天井の木目をぼんやりと見つめながら、長く、重い息を吐き出す。あとは果報を寝て待つだけだ。——その、わずか五秒後。『ブルルルルルッ!』胸の上で、携帯が暴力的なまでに暴れ出した。 先端のLEDランプが、暗い部屋の中で狂ったように赤い光を点滅させている。 即レス!? 心臓が肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がり、私は弾かれたように上体を起こした。震える手でパカッと携帯を開き、新着メールのフォルダを開く。緑色の液晶画面に、彼からのメッセージがゆっくりとスクロールされていく。『おつかれ! 映画いいよ、行こ!』(勝った……!) 脳内で三人の私がガッツポーズをした直後、スクロールした画面の下部から、信じられない文字列が目に飛び込んできた。『てか今、駅前で偶然なぎに会って、一緒に新しいカフェでクレープ食べてたとこ! 栞も今から来る?笑 (ここからなぎ代筆☆ 栞ちゃん早くおいでよー!クレープ美味しいよ!(≧▽≦)/)』——ピシッ。私の脳内で、三時間かけて築き上げた緻密なガラスの城が、木端微塵に砕け散る音がした。(…………泥棒猫ォォォォォォォッ!!!!)文字しかないこの小さな液晶画面から、チョコバナナクレープの甘い匂いと、あの子の無邪気な笑い声が飛び出してきそうだった。 写真すら送れないこの時代に、わざわざ彼のパーソナルスペースに踏み込み、「携帯を奪って代筆する」という物理的な力技で同席をアピールしてくるなんて。三時間かけた私の「大人の余裕」は、あの子の「偶然」と「本能」の前では、ただの紙切れ同然だった。「……行く。絶対行く」低い声が、自分の口から漏れた。 私はベッドから跳ね起きると、クローゼットの扉を勢いよく開け放った。ハンガーがガシャガシャとけたたましい音を立てる。 負けてたまるか。大人の余裕なんて知るものか。私は髪を振り乱し、三分で完璧なメイクを直すと、ひったくるように鞄を掴み、玄関のドアを蹴り開けた。 群青色の夜の底へ向かって、アスファルトを蹴りつける。 やはり私の愛は、今日も底なしに重く、そして見事に空回りしている。


琥珀色に溶け出した夕陽が、スーパーの軒先を淡く、けれど鮮やかに染め上げていた。 手のひらの上で転がる、チープで安っぽいプラスチックの指輪。だけど、それを通した西日の光はキラキラと無数に乱反射して、私の心は今、これ以上ないほどに踊っていた。「ガチャガチャ? 私も回そっかな」不意に、栞が色あせたガチャガチャの機械の前にしゃがみ込み、こちらをちらりと見上げた。 知ってる。栞が、私の指にはめられたこの指輪を、痛いほど意識していることくらい。だけどね、栞。ごめんね。「私が、もらったの」ふふんと鼻先で笑ってみせると、栞はわかりやすくムッとした顔になる。彼女は本当に、驚くほど対抗心が強い。普段は張り合いがないくらい静かで「大人」の仮面を被っているくせに、『彼』のことになると途端に我がままな女の子の顔になるのだ。 少しだけ力んで、ガチャリ、と硬質な音を立ててハンドルを回す栞。ゴロンと転がり出たカプセルの中身を覗き込んで、私はすかさず言い放った。「うわ、はずれ」 「ちょっ、はずれって何よ!」いつもはすかしている栞の、焦り切った見事なツッコミ。それがおかしくて、私はお腹を抱えて笑ってしまった。あぁ、大好き。栞って本当に良い。 もし彼女じゃなかったら、私は絶対に『彼』のそばにはいさせなかった。間違いなく、私のテリトリーから排除していた。 我ながら少し怖い思想だと思うけれど、私はこの三人の、光だまりのような空間が何よりも大切で、愛おしい。三人でキャッキャと騒いで、くだらないことで笑い合っている時間が、たまらなく幸せなのだ。いつか、この魔法みたいな時間は終わってしまうのかもしれない。『彼』が栞と結婚したら、私はいられなくなるのかもしれない。 でも、栞なら、なんだかんだと文句を言いながら私をそばにいさせてくれる気がする。だから、栞がいい。 他の有象無象の女の子は、片っ端から排除する。この前だって、私のクラスの子が「あの先輩いいよね」と頬を染めてきたから、『彼』にまつわる背筋も凍るような「呪われた伝説」をそっと耳打ちしてあげた。内容はもう忘れちゃったけれど、彼女はしばらく小鹿のように震えていたから、かなり効いたみたい。私は、『彼』が好き。大好き。 今、こうして指輪をもらって、空まで跳ね上がりたいくらい嬉しい。嬉しくて、本当につま先で少しだけ跳ねた。もし私と『彼』が結婚したら、栞、いつでも遊びに来ていいよ。いっそ近くに引っ越しておいでよ。 ……あ、我ながらナイスアイデア! それ、すっごくいい! 私の趣味全開でとびきり可愛く飾った愛の巣に、栞が「相変わらず変な趣味してんね」とブツブツ文句を言いながら上がり込んでくるのだ。うん、最高。よし、そうしよう。妄想するだけで、心臓がこれまでにないくらい高鳴って、ワクワクしてくる。 西日に透かしたプラスチックの赤は、世界中のどんな宝石よりも綺麗で、私の胸のずっと奥のほう、一番やわらかい場所をギュッと掴んで離さなかった。 『彼』が私にくれた、不意打ちの、何の計算もない純粋な時間。 それ以来、この指輪は私のポケットの中に潜む、誰にも教えないお守りになった。栞は、頭が良くて、美人で、そして本当に不器用だ。 彼女は自分の愛の重さを隠すために、いつもガチガチに透明な鎧を着込んでいる。 今日だってそうだ。 駅前で待ち合わせた時、『たまたま暇だったから来た』みたいな涼しい顔をして立っていたけれど、私をごまかせるわけがない。 春の風を計算し尽くしたように揺れるシフォンスカート。鎖骨がきれいに見える、絶妙なVネックのベージュのトップス。それに、すれ違う瞬間にだけふわりと鼻先をかすめた、あの花の匂い。 あれは手首でも首筋でもない。わざわざ『膝の裏』に香水を仕込んでいたのだ。どれだけの時間、鏡の前で悩んだのだろう。 どれだけの思考を巡らせて、あの完璧な「隙」を演出したのだろう。すごいなぁ、と思う。純粋に感心してしまう。 彼女は彼を振り向かせるためなら、天気図を読み解き、心理学の本を読み漁り、何日でも平気で徹夜するだろう。その異常なまでの情熱と執着心は、正直ちょっとゾクッとするくらいだ。ちょっと引く。でも、恋敵としては不足なし、だ。でもね、栞。 恋って、数式じゃないんだよ。いくら完璧なコーディネートを計算しても、膝の裏に秘密の香水を忍ばせても。 夕暮れの中、ふざけて笑い合いながらもらった200円のプラスチックの指輪が持つ、あの圧倒的な「熱」には勝てない。私はポケットの中で、赤い指輪の滑らかな表面にそっと指先で触れる。 栞が何日もかけて築き上げた緻密なガラスの城壁を、私はいつだって、しなやかな猫みたいに軽々と飛び越えてみせる。 だって私には、理屈じゃない、この絶対的な「本能(におい)」があるから。長く伸びた三人の影が、オレンジ色の舗道に並んでいる。 私は、この三人でいることが好き。ずっとこうしていたい。永遠に。(ね、センセー。私まだ子供だけどね、『愛』ってなんだか、ちゃんと知ってるよ)


窓辺に差し込む光が少しずつオレンジ色を帯び、キーボードを打つ手を止めてふと外へ視線をやると、いつの間にか空は深い群青へと沈んでいました。 その美しいグラデーションをぼんやりと眺めながら、私の胸の中には今、少しばかりの焦りと、静かな祈りが交差しています。現在公開中のスピンオフ。メロンソーダに落ちたさくらんぼで、涙が出るほど笑い転げるなぎと栞の無防備な日常。 琥珀色の西日のなかでシュワシュワと弾けるその黄金色の時間をテキストに起こしながら、私の心はどこかひどく締め付けられていました。 彼女たちの他愛のない会話が透き通っていればいるほど。その笑顔が、眩しいほどに鮮やかであればあるほど。物語の紡ぎ手である私には、彼女たちがやがて辿り着く「結末」が、鋭利な刃物のように痛く迫ってくるからです。クラウドファンディングの終了が、すぐそこまで近づいてきました。砂時計の最後の砂が落ちていくのをただ見つめているような、そんなもどかしい気持ちで今、画面に向かっています。正直に言ってしまえば、「あぁ、このままではいけない」という焦燥感が、胸の奥でチクリと音を立てています。 もし、このまま時間が尽きてしまったら。あの『真の結末』を、多くの方々の心に届けることができなくなってしまうのかもしれない。そう思うと、絶望にも似たどうしようもない寂しさが込み上げてくるのです。「なぜ、彼女たちにそんな痛みを伴う運命を用意したのか」と問われるかもしれません。 けれど、誤解を恐れずに言えば、それは絶対的な「救い」を描くためなのです。私がどうしても皆様にお見せしたいのは、激しい痛みの果てにある、息を呑むほどに美しいラストシーンです。すべてを喪失したかのように思える深い夜の果て。冷たい鉄の匂いがする、終着駅のホーム。 その暗闇のなかで、なぎの小さな手の中にだけ、確かな光があります。あの琥珀色の夕暮れの中で「僕」が渡した、あのチープな赤いプラスチックの指輪です。「あなたを許さない。…………」それに続く言葉は、決して呪いなどではありません。泥だらけになって、すり減って、それでもなお暗闇の底を這いずり回った彼女たちがようやく見つけ出した、嘘偽りのない純粋な「愛」であり、究極の「救い」の形なのです。プラスチックの指輪が、どんな高価な宝石よりも気高く、美しく輝く瞬間。二人の痛みが昇華され、静かな夜明けの光がホームを包み込む情景は、まるでひとつの絵画のように私の頭の中で鮮明に息づいています。 正直に言います。このラストに行きついたとき、僕は書きながら泣きました。僕自身が、激しい痛みと苦しみの先に見つけた「物語による救い」がそこにあったからです。それがあって初めて、「なぎのえき」は完成します。この美しくも切ない結末が、誰の目にも触れずに、静かに引き出しの奥へしまわれてしまうのは、あまりにも哀しい。 激しく切ない結末の奥底にある静かな夜明けが、日々を戦い、傷つきながら現代を生きる人たちにとっての、「真の避難所(オアシス)」になり得ると強く信じているからこそ、どうか、どうか見届けてほしいのです。残された時間は、あとわずか。 琥珀色の日常から、暗闇のトンネルを抜け、そして迎える眩しい夜明けまで。彼女たちが辿り着くその駅の景色を、一緒に見つめていただけませんか。 どうか、この小さな祈りがあなたに届きますように。


私が自分のことを「ひょっとして私、重い……かも?」と自覚し始めたのは、まだ高校に通っていた頃に遡る。ある日の放課後、校門近くでのこと。 前を歩いていた彼に向かって、なぎがものすごい俊敏さで駆け寄り、小さなラッピング袋を押し付けているのを目撃した。その時のなぎの身のこなしは、まさに「猫」そのものだった。 いや、ただの猫じゃない。あれは私の平穏を脅かす「泥棒猫」の動きだ。 そう直感した私は、気づけば足早に彼に詰め寄り、半ば強引に彼を問い詰めていた。(今思えば、付き合ってもいないのに一体何様だったのだろう)「なにそれ」 「あ、いや、なぎから……」私は彼の手からクッキーを奪い取ると、躊躇なく一口かじった。 誤解しないでほしいが、決して食べたかったわけではない。これはあくまで敵の戦力分析だ。サクッ、と音を立てて崩れたそれは……甘かった。 そして、いかにも市販のミックス粉で作りましたというような、大味で拙い手作りの味。その瞬間、私の中で冷たい炎が燃え上がった。 『これなら、私は勝てる』私はその足でホームセンターへ直行し、ありとあらゆるプロ用の製菓器具を買い漁った。ボウル、粉ふるい、デジタル温度計、シルパット。高校生の小遣いを一瞬で溶かす、それはもう異常な執念だった。翌日の休日は、丸一日キッチンにこもった。 1グラムの狂いも許さず計量し、バターの温度を徹底的に管理する。鬼の形相で生地を練る私を見て、母が呆れたように声をかけてきた。「なに、急に嫁入り修行?」「っ……!!」 表面上は「ただのお菓子作りだけど」とクールに返したものの、私の脳内では『嫁入り』という甘美な二文字が、エコーを伴って無限にリフレインしていた。(危なくボウルを落としそうになった)そして迎えた月曜日。 徹夜の末に錬成された、芸術品のようなクッキーを彼に差し出した。 彼は一口食べると、目を丸くして歓喜の声を上げた。「うまっ!! なにこれ、どこのお店で買ったの!?」(…………やりすぎたーーーーっ!!!)私は、見えない巨大なハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。 プロのクオリティに近づけることを追求しすぎた結果、一番大切な「女の子の手作り感」を完全に消し飛ばしてしまったのだ。これでは、ただの「美味しい高級クッキーを買ってきて配る謎の同級生」ではないか。「……うん。適当に作ったから、別に残してもいいけど」私は必死に無表情を作ってそう言い残し、足早に立ち去った。 あれは大失敗だった。その日の夜、私の脳内では緊急懲罰会議が開催された。 議題は『なぜ手作りの温もりを排除してしまったのか』『いくら美味しくても、あれでは隙がない!』 『やはり、少しは不慣れで「かわいい余白」を残す必要があるのではないか!』完璧であろうとする自分を糾弾し、いかにして「計算された不器用さ(かわいい余白)」を演出するかを真剣に議論するという、ひどく矛盾した会議。あの頃から私の愛は、どうしようもなく重く、そして空回りし続けていたのだ。あの手作りクッキー大失敗事件から、少しの季節が巡った。制服という最強の鎧を脱ぎ捨て、少し所在ない春休みの午後。窓から差し込むうららかな春の陽気にまどろみながら、ベッドでゴロゴロと雑誌をめくっていた私のスマホが、不意にブルッと震えた。一人暮らしにもなれ、すこし余裕も感じられる頃。画面に表示された文字を見て、私の呼吸がピタリと止まる。『明日、ちょっと買い出し付き合ってくれない?』彼からのメッセージだった。 画面を見つめる私の顔は、おそらくシベリアの永久凍土のように冷たく、凪いでいたはずだ。私は無表情のまま画面を数回タップし、極めて事務的に『いいけど。何時?』とだけ返信した。・・・・・余裕はどこにいった? 数秒後、『10時に駅で!』と、彼の性格そのままのシンプルな返信が来る。「……よしっ!!」私はスマホをベッドの奥深くに放り投げ、両手で渾身のガッツポーズをした。もしここにバレーボールのネットがあれば、間違いなく実業団レベルの完璧なアタックが決まっていたはずだ。買い出し? 違う。彼と私、二人きり。これは紛れもなく「デート(仮)」である。 その瞬間、私の頭の中でけたたましいエマージェンシー・サイレンが鳴り響き、緊急脳内会議が招集された。【議題:明日の勝負服(※あくまで買い出しを装うこと)について】脳内の重厚なマホガニーの円卓を囲むのは、3人の私。議長・栞(クールな表層)が、コンコンとペンで机を叩いた。 「落ち着きなさい、諸君。明日はあくまで『日用品の買い出し』です。ここで気合いを入れすぎれば、『買い出しごときで張り切ってる痛い女』の烙印を押されます。テーマはあくまで『たまたま近くにいたから来ました』感。以上」戦略家・栞(データと計算の鬼)が、キラリと光る眼鏡を押し上げる。「甘いですね、議長。明日の気温は24度、南南西の風3メートル。訪問予定のホームセンターは駅から徒歩15分です。歩きやすさを考慮しつつ、彼との身長差15センチを活かして上目遣いを誘発するため、ヒールは3センチがベスト。また、心理学的に『守ってあげたい』と思わせる淡い寒色系の投入を推奨します」情熱の栞(愛が重すぎる本音)が、バンッと机を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。 「馬鹿言ってんじゃないわよ! デートよ!? 二人きりなのよ!? なぎがいないこの千載一遇のチャンスに、私の女としての魅力をヤツの網膜に焼き付けるべきでしょ! 先月買ったあの背中がガッツリ開いた黒のワンピース! あれでいくわ!!」「却下!!」 議長と戦略家が同時に叫んだ。「白昼のホームセンターに背中丸出しの女がいたらただの不審者よ!」と議長が嗜める。 「それに、黒はなぎのパーソナルカラー(明るい原色)との対比としては強いですが、親しみやすさに著しく欠けます!」と戦略家も続く。しかし、情熱の栞も食い下がる。 「じゃあどうするのよ! いつもみたいなスキニーパンツじゃ、ただの友達止まりじゃない! 鎖骨! せめて鎖骨と手首、足首の『3つの首』は確実に出していきなさいよ!」「……一理あります」 戦略家が顎に手を当てて頷いた。 「風速3メートルを利用し、歩くたびにふわりと揺れるシフォンスカート。トップスはVネックで鎖骨を強調。しかし色はあえて無難なネイビーにし、清楚さと『隙』を意図的に演出しましょう。香水は手首ではなく、すれ違った時にだけふわりと香るよう、膝の裏にワンプッシュ」「それよ!! 完璧!!」 「……まあ、それくらいなら『気合い入ってる感』は誤魔化せるわね」脳内会議は全会一致で可決された。 しかし、現実はそう甘くない。「……丈が違う。風になびかない」 「トップスのVが浅い! もっと! もっと鎖骨のラインを!」 「色が微妙に顔色に合わない! 却下!」気づけば深夜3時。 春の夜風が吹き込む私の部屋のベッドの上には、エベレスト級の服の山が築き上げられていた。 何度も着替えては鏡の前に立ち、一人でターンを決めて風の抵抗を確かめる。結局、私が「究極の無造作(に見せかけた緻密な計算の結晶)」のコーディネートを完成させたのは、窓の外の空が白み始め、遠くでスズメがチュンチュンと鳴き始めた頃だった。——翌朝、10時。駅前。春の穏やかな日差しが、ロータリーのタイルの上をキラキラと照らしている。「ごめん、待った?」少し息を切らしながら駆け寄ってくる彼を見て、私の心臓はけたたましく跳ねた。寝不足で頭はフラフラするし、計算通り南南西の風は吹いているものの、膝の裏の香水がちゃんと香っているか気になって仕方がない。けれど私は、心の中の巨大なハリセンで自分を落ち着かせ、彼に向かってふっと涼しげに微笑んだ。計算し尽くされた角度で髪を耳にかけながら、口を開く。「ううん、私も今来たとこ。……別に暇だったし、早く行こ」本当は朝4時からメイクとヘアセットの準備をして、駅には90分前に着いて、彼がどのルートから来ても一番美しく見える立ち位置を検証していたことなんて、絶対に死んでも知られてはいけない。そんなの、ただの重い女じゃん。 違う、私は重くない。気をつけてる。 しいて言うなら、そう、私は「想い女」だ。重いんじゃない、想いが深いだけ。そんなイタい自己弁護を脳内で展開しながら、私は彼に気づかれないように深く息を吸い込み、春風とともに歩き出した。


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