最初にお話をいただいたとき、私の心の片隅には、ほんの小さな棘のような感情が芽生えていました。「そっか、私は主役じゃないんだ」それは役者としての、ひどくちっぽけで個人的なエゴだったのだと思います。眩しい光の真ん中に立つ『なぎ』の傍らで、そっと影を落とすような立ち位置。そこにどんな顔をして立てばいいのか、最初はどこか戸惑いを感じていたのが正直なところです。けれど、そんな浅はかな棘は、台本という名の扉を開けた瞬間に、あっけなく波にさらわれていきました。唐津の海の匂い。琥珀色に染まる夕暮れ。静かに、けれど確実に輪郭を失っていく不条理な日常。その美しさと残酷さに触れたとき、胸の奥から「ああ、これは他の誰でもない、私がやらなければいけない役なんだ」という静かな確信が込み上げてきたのです。紡がれる物語の言葉を追うたび、ふいに涙がこぼれそうになる夜があります。 ただ活字をなぞっているだけなのに、どうしてこんなにも心が解けていくのでしょう。見えない鎧を着込んで張り詰めていた糸が緩み、忘れかけていた深い呼吸を取り戻していく。そんな穏やかな救いを物語から受け取るたび、今度は得体の知れない怖さに襲われます。「こんなにも完成された静寂の世界を、私の声で壊してしまわないだろうか」読者の頭の中で鳴っている美しい波音を、私の不器用な声が邪魔してしまうのではないか。そんな不安に足がすくみそうになる私をいつも繋ぎ止めてくれるのは、この物語の生みの親である篠原の存在です。おそらく世界中の誰よりも、この作品に対して途方もなく「想いが重い」人。その彼が、他の誰でもない私を栞として選んでくれた。その事実だけが、プレッシャーで震えそうになる私の背筋を、何度でもピンと伸ばしてくれるのです。実際の収録現場は、途方もない愛と、少しの狂気が入り混じるような場所です。 声の温度、わずかな息の抜き方。ひとつの音のズレすら許されない、徹底的に妥協のないテイクの繰り返し。時折逃げ出したくなるほど身を削られる瞬間もあります。が、その息を呑むような熱量の渦中にいるからこそ、私は「栞」という女性の生々しい体温を、確かに掴み取ることができているのだと感じています。この美しくて痛切な物語の、ひとつの小さなピースになれたことを、今は心から誇りに思います。 いつか、息の詰まるような日常で戦う誰かにとって、この声が静かな「避難所」になれますように。そんなささやかな祈りを込めながら、私は今日もマイクの前に立っています。栞 役 / 莉子




