『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

現在の支援総額

48,000

1%

目標金額は2,500,000円

支援者数

8

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/23に募集を開始し、 8人の支援により 48,000円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

現在の支援総額

48,000

1%達成

終了

目標金額2,500,000

支援者数8

このプロジェクトは、2026/06/23に募集を開始し、 8人の支援により 48,000円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

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小説 の付いた活動報告

「決して離さない」僕は心の中で固く誓い、その決意を物理的な重さとして証明するように、栞の細い肩を強く抱き寄せた。 僕たちは全身で互いを求め合い、夜の深い闇の中で、まるで難破船の木片にしがみつくようにして肌を重ねた。栞もまた、僕の背中に爪を立て、声にならない声を上げた。それは、僕たちを分かとうとするこの世界の理不尽な重力や、冷酷な宇宙の法則に対する、必死の抵抗だった。 離れることはない。絶対に。 夜の海が絶え間なく波を打ち寄せるように、僕たちはそのシンプルな約束を互いの体温で何度も確かめ合った。世界の書き換え目が覚めたとき、僕は「ひとり」だった。網戸越しに聞こえてくるはずの唐津の波音は消え失せ、代わりに、遠くの幹線道路を走る大型トラックの重低音が、ひどく無機質に鼓膜を震わせていた。窓から差し込む光は、朝特有の澄んだ青ではなく、排気ガスと都市の埃を通したような、濁った灰白色をしていた。 そこは唐津の広々としたマンションではなく、僕がかつて息を潜めるように暮らしていた、東京の狭苦しいアパートのベッドの上だった。起き上がり、部屋を見渡す。 小さなテーブルの上には、生ぬるくなったビールの空き缶が一つ転がっているだけだ。僕たちが毎晩頭を突き合わせて練り上げた事業計画書も、栞が熱心に付箋を貼っていたビジネス書も、忽然と姿を消していた。 冷蔵庫を開けても、彼女がいつも僕のために作ってくれていた色鮮やかな常備菜のタッパーは一つもない。クローゼットには、泊まりに来た時のために置いてあった彼女のカーディガンも、洗面台の端にあった二つ目の歯ブラシも、すべてが完璧に消滅していた。それは単なる「不在」ではなく、明確な「消失」だった。 まるで、世界という巨大なシステムを管理する見えない手が、バックスペースキーを長押しして、「栞」という存在の痕跡をこの宇宙から一行残らずデリートしてしまったかのように。僕は震える指でスマートフォンを操作し、栞の母親の番号へ発信した。数回のコールの後、電話口に出たのは、まったく聞き覚えのない、冷ややかな声の別の女性だった。 何度確認しても、共通の知人の記憶を辿っても、結果は同じだった。世界中の誰の脳内データベースにも、「栞」という人間は一ミリグラムの欠片も残っていなかった。この広大で無関心な宇宙の中で、彼女の体温と涙の記憶を保持しているのは、僕というただひとつのバグった端末だけになってしまったのだ。「また、守れなかった」両手で顔を覆うと、乾いた絶望が砂のように指の隙間からこぼれ落ちた。離さない。そんな子供でも守れるようなシンプルで小さな約束すら、僕は遂行できなかったのだ。迷宮の歯車としてスマートフォンの画面が淡く光り、無数の着信履歴を通知していた。 それは、僕がとっくに辞めたはずの、あの息の詰まるような東京の会社からのものだった。この栞のいない書き換えられたタイムラインでは、僕はまだあの無機質なビルに通い続けているらしい。 自分自身のどうしようもない怠惰さに、深いため息が出た。栞と二人で語り合った未来は、あんなにも色彩に溢れ、心臓が跳ねるようなワクワク感に満ちていたというのに。彼女という光を失った途端、僕はただ散らかった部屋でビールを飲み干し、感情を殺して惰性でシステムに寄生するだけの、空っぽな肉体の塊に成り下がっていたのだ。鉛を飲み込んだように重い身体を、無理やりベッドから引き剥がす。 手入れもされず、シワの寄ったグレーのスーツに袖を通す。ネクタイを締める行為は、自らの首に絞首刑の縄をかける儀式のように思えた。アパートの階段を降り、駅へ向かう僕の足取りは、ひどく重く、まるでおもちゃを取り上げられて拗ねている子供のように不格好に引きずられていた。会社に着くと、フロアの真ん中で、見覚えのない年下の上司から激しい叱責を浴びせられた。これも、世界線がズレたことによるバグなのだろう。栞のいたあの美しい世界では、こんな浅薄な男と交わることなど一度もなかった。「役立たずの老害」「ただの経費の無駄」「その疲れた顔が視界に入るだけで不快だ」「さっさと消えろ」彼は苛立ちを隠そうともせず、唾を飛ばした。 僕は彼の放つ悪意に満ちた言葉の羅列を、脳内で自動的に要約し、不要な装飾を削ぎ落とす作業に没頭した。そうでもしなければ、猛毒にまみれた過剰なボキャブラリーが皮膚から浸透してきそうだったからだ。僕は昔から、過剰に装飾された言葉を好まない。改めてそう実感しながら、怒りに顔を歪める彼を、どこか遠い別の惑星の生き物を観察するような目で静かに見つめた。確かに腹立たしい。しかし、この宇宙から「栞が消滅した」という圧倒的な絶望の質量に比べれば、目の前の男の罵声など、春先の砂埃程度の些細なノイズでしかなかった。いま、僕がすべきことは、こんな場所で魂をすり減らすことではない。僕は無言のまま踵を返し、オフィスのドアに向かって歩き出した。背後で上司が裏返った声で新たな罵詈雑言を喚き散らしていたが、僕の鼓膜には一切届かなかった。それは、栞を見つけるための有益な情報ではなかったからだ。摩耗する魂と、美しいコンクリートの迷宮僕は、世界から完全に消去されたはずの栞の痕跡を求めて、東京の街へと足を踏み出した。かつて彼女が一人で引きこもっていたマンション。二人で言葉少なに歩いた並木道。雨宿りをしたバス停。あてもなく時間を潰した巨大なショッピングモール。歩き続けているうちに、空はゆっくりと、しかし確実に色を変えていった。 西の空から血のようなオレンジ色が染み出し、それがビルの群れを包み込むようにして、深い藍色の夜へと溶け込んでいく。無数にそびえ立つガラス張りの高層ビル群は、夕暮れの光を鋭く反射し、まるでこの街全体が呼吸をする巨大な生命体であるかのように瞬いていた。美しい。残酷なまでに美しく、そして途方もなく冷たい景色だった。街は、出口のない巨大な迷宮だった。 幾重にも交差する歩道橋、地下へ地下へと続く無機質なエスカレーター、溢れ返るネオンサインのノイズ。「彼女はただ、この複雑な迷宮で少し迷子になっているだけなんだ」そう自分に言い聞かせることで、僕は辛うじて精神の形を保っていた。不思議じゃない。こんなにも巨大で入り組んだ世界なら、誰かがふいにはぐれてしまうことくらい。そう考えるだけで、胸の奥の重苦しい岩がわずかに軽くなる気がした。しかし、歩けば歩くほど、僕は確実に削り取られていった。 革靴の中で足の裏の皮が破れ、鈍い痛みが一歩ごとに脳を突き刺す。喉は砂漠のように渇ききり、関節という関節が、油の切れた機械のように嫌な音を立てていた。すれ違う何万という人々の波は、誰一人として僕の絶望に関心を持たず、ただの情報の束のように通り過ぎていく。頭上の巨大な街頭ビジョンが、無意味な広告を鮮やかな色彩で垂れ流している。 夜風が、汗ばんだシャツを冷たく撫でていく。世界のどこにも、栞はいない。 重力に抗いきれなくなった僕の足取りは次第に遅くなり、肺の奥には、都市の孤独という名の見えない灰が、少しずつ、だがあきらかに致命的な量で積もり始めていた。


未来形の喪失
2026/07/14 16:55

唐津の海に夜が降りてくると、世界は深い藍色の静寂に包まれる。開け放たれた窓からは、絶え間なく波の砕ける音が聞こえてくる。それは地球の呼吸のように規則正しく、僕たちの焦燥を少しずつ削り取っていくようだ。遠く海と空の境界線は曖昧に溶け合い、漁火の小さな光だけが、そこが物理的な空間であることを辛うじて証明していた。空気はどこまでも澄み渡り、冬の星々が触れ合えば冷たい硝子の音がしそうなほどに、張り詰めている。僕たちはホテルを出て、ほど近い場所に小さな部屋を借りた。この地に定住するつもりでいた。東京に未練の無い僕たちの判断は早かった。東京の狭いアパートとは違う、間取りに少しだけ余白のある部屋。 そこで僕たちは、小さなテーブルを挟んで向き合い、ノートパソコンの淡い光を浴びながら、新しい会社の事業計画書を練っていた。この地に、僕たちは「なぎ」の物語を正しく伝え、彼女の存在を得家のものにするための会社を作ろうとしていた。なぎの記憶に背中を押されるようにして始まったこの道は、険しい。けれど、歩みを進めるたびに、物語は確かな重みを持って形になりつつあった。 僕となぎの物語を語るために。彼女を「最高のヒロイン」としてこの世に再誕させるために。出版社に持ち込んで、ありきたりな「お涙頂戴」として消費されることだけは、どうしても避けたかった。それでは、あの真っ直ぐな瞳をしたなぎは絶対に納得しないだろう。 だから僕と栞は、自分たちで出版社という船を創ることにしたのだ。あまりに無謀で、滑稽な試みかもしれない。けれど、一度は絶望の淵で息絶えかけた僕たちが、今こうして呼吸をしているのは、間違いなく彼女という存在が光を照らしてくれたからだ。「資金繰りの計算は、これでだいたい片付いたね」栞が眼鏡のブリッジを指で押し上げ、ふうっと小さく息を吐いた。決断してからの栞の行動には目を見張った。あっという間に準備をすすめ、起業に必要な手続きの段取りを済ませてきた。仕事に疲れて、暗い部屋にひとりで泣いていた彼女の面影すら思い出せないほどに、いま僕の前にいるのは強く、どこまでも強く行動的なレディだった。デスクライトに縁取られた彼女の横顔は、夜の闇に溶けそうなほど儚く、それでいて、そこに確かに存在しているという温かな実感を伴っていた。「ああ。あとは、登記の書類を揃えるだけだ。……スケジュールはどうする?」僕は彼女に尋ねた。目標が「予定」へと変わる瞬間、僕の胸には静かな、しかし確かな高揚が波紋のように広がっていた。それはきっと、彼女が僕に寄り添い、献身的に支えてくれたおかげだ。僕は心から、彼女に感謝していた。「そうね」栞は頷き、手元のカレンダーに視線を落とす。「——には、市役所に行ってくるわ」僕の手が止まる。 一瞬、僕の耳が、彼女の言葉をうまく拾えなかったのかと思った。「……ごめん、いつ行くって?」「だから、——には、市役所に行ってくる」聞き間違いではない。栞の唇は間違いなく「あした」と動いたのだ。しかし、その三文字が発せられた瞬間、彼女の喉から出るはずの音が、空気が、完全にミュートされてしまった。 まるで、世界という巨大なシステムの管理者が、彼女のその音声データだけを、悪意を持って削除したかのように。僕はパソコンの画面をそっと閉じ、目の前に座る彼女の輪郭を確かめるように見据えた。「栞」 「……どうしたの?」「少しだけ、記憶のすり合わせをさせてくれ。昨日、僕たちは何を食べた?」「昨日? カレーだけど……」栞は怪訝そうに眉をひそめ、探るように僕の目を見つめた。「急にどうしたの。自分の記憶に自信がなくなった?」「なら、今は何時だ。君が認識している、現在の正確な時間は?」「夜の十一時」淀みはない。過去という確定済みの事象も、現在という観測点も、彼女の口からは極めて滑らかに、自然な音として紡がれる。彼女の意識は、過去から今この瞬間に至るまで、完璧な連続性を保って機能している。「じゃあ……」 僕の心臓が、ひどく嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。「この書類、いつ提出するって?」栞は少し呆れたように、ふっと笑う。そして、口を開いた。「だから、——」音が消えた。 僕の鼓膜には、窓の外から流れ込む波の音と、微かな夜風の音しか届かない。栞自身も、自分の声が途切れたことに気づいたようだった。彼女は戸惑ったように何度か瞬きをし、もう一度、慎重に口を動かす。「……——」 「……——の、来週には」 「……——、来年の春には」駄目だった。何度試しても、「明日」「来週」「未来」という、これから先の時間を指し示す言葉だけが、彼女の世界から綺麗に切り抜かれていた。彼女は自分の喉に手を当て、ひどく傷ついたような、そしてすべてを悟ったような瞳で僕を見つめた。「……そっか」栞は静かに微笑んだ。その笑顔は、かつてなぎが「私はもうすぐ死ぬんだよ」と告げた時の、あのどこか透明で、諦観に満ちた表情と、残酷なまでに重なっていた。「私、もう、この世界で未来を語る資格がないみたい」その言葉を聞いた瞬間、僕の奥底で、冷たくて固い何かが弾けた。 世界は、物理法則や時間の概念を使って、静かに栞を排除しようとしている。なぎの未来を暴力的に奪い去ったこの世界は、今度は栞の未来を、こんなにも静かに、システマチックに消去しようとしているのだ。「冗談じゃない」僕は椅子を蹴るようにして立ち上がり、テーブル越しに栞の両手を強く握りしめた。彼女の掌は氷のように冷たかったが、それでも微かな脈動が、確かにそこにあった。「あなたには、未来がないわけじゃない。世界が勝手にバグを起こして、君から言葉を奪っているだけだ。そんなふざけたルール、僕が絶対に認めない」「でも……」「君が言えないなら、僕が言う」僕は彼女の冷たい手を、祈るように自分の頬に押し当てた。窓の外では、夜の海が圧倒的な質量を持ってうねり、静かな怒りをたたえているようだった。「明日は、一緒に市役所へ行く。来週は、ギャラリーの壁を二人で塗る。来月は、あいつの墓前に報告に行く。来年も、再来年も、君はずっと僕の隣で笑ってる。君が未来を発音できないなら、僕が君の未来を全部、何度でも口にしてやる」栞の大きな瞳から、涙が一粒、音もなくこぼれ落ちた。それはデスクライトの光を反射して、この世界のどんな宝石よりも美しく、残酷に輝いていた。なぎを奪われ、暗闇の迷宮でうずくまっていただけの僕は、もういない。 世界が彼女を消去しようとするなら、僕は言葉を武器にして、この不条理な因果律と全力で戦い抜く。 これは、残酷で美しい世界に対する、僕のたったひとりの叛逆であり、栞をこの世界に繋ぎ止めるための、果てしない冒険の始まりだった。


親しい人の死というものに直面するのは、これが初めてではなかった。最初は、母の自死だった。 あの時、僕も、僕を取り巻く世界も、まだ子供だった。子供特有のむき出しの純粋さは、時にひどく鋭利な刃物になる。級友たちは遠巻きにひそひそと噂話に花を咲かせ、新聞の三面記事を読んだという無邪気な少年は、僕の顔を見るなり「お前のかぁちゃん、自殺だってー?」と放った。驚くほどストレートで、痛覚を麻痺させるほどの残酷さだった。それに比べれば、今回は僕も、周りも、すっかり分別のある大人になっていた。 だが、大人という生き物は、時として子供よりずっと薄気味悪い。巧妙な距離感と、「気遣い」という名の分厚い包装紙で包まれた野次馬根性。彼らは遠回しな言葉を使い、僕の「今の気持ち」の裏側を覗き込もうとした。他人の悲劇というものは、安全な対岸から眺めるにはうってつけの、極上のエンターテインメントなのだろう。そういえば、かつて僕の習作をまとめて出版したいと言ってくれた雑誌社の編集者が、原稿を持ち込んだ席で口を滑らせたことがあった。「例の彼女の死について、少しエッセイ風の記事を書いてみませんか」と。人の死は、これほどまでに手軽に消費され、喜ばれるコンテンツになるのか。僕が実感の湧かない頭でぼんやりとそう思った瞬間、奥で話を聞いていた栞の空気が氷のように冷たくなった。 彼女は文字通り、鬼のような形相で編集者を睨みつけた。あの静かな怒りの圧力は凄まじく、話は即座に白紙になった。美人が本気で怒ると、周囲の酸素が奪われるほど怖いのだと、その時初めて知った。編集者の男は、完全に震え上がっていた。それからというもの、静まり返ったアパートの部屋での栞の献身は、徹底していた。 彼女は僕を無菌室に閉じ込めるように、周囲のあらゆる悪意やノイズを遮断した。過保護なほどに僕を守り抜いた。かつて栞自身が深く傷ついていた時、僕は果たしてここまで彼女を守れていただろうかと、不安になるほどの強さだった。 だからこそ、今回の彼女の「送る会」についても、栞はひどく躊躇していた。僕がまた倒れてしまうのではないか。また、狂ったように深酒をするのではないか。「また」という言葉が何度もこびりつくほど、僕は荒れ、そして壊れていた。その度ごとに、栞は自分の身を削って僕を庇い続けた。当時の僕は、果てしなく続く鏡張りの迷宮の底にうずくまっていた。それは物理的な空間というより、僕の精神が造り出した冷たく、そして完璧に無機質な牢獄だった。上下左右、視界のすべてが歪みのない巨大な鏡で覆い尽くされている。自分の足音すら無限の彼方まで乱反射し、どこまでが現実で、どこからが狂気なのか、その境界線はとうに消失していた。どこを向いても、そこにいるのは僕だった。ただの僕ではない。虚ろに濁ったビー玉のような目玉を持ち、頬が削げ落ちた、ひどく醜く惨めな自分だ。それはまるで、透明なホルマリンの海に沈められた、出来の悪い剥製標本のようだった。何千、何万という「死んだ僕」の顔が、合わせ鏡の奥の奥、視力の限界を超えた暗闇の果てまで、冷たい幾何学模様のように連なっている。恐ろしいことに、鏡の中に並ぶ無数の僕は一つ一つ、わずかに違う絶望の形をしていた。力なく泣き崩れる僕、無表情に虚空を見つめる僕、声にならない叫びをあげる僕。それらが一斉に、瞬きひとつせずに、合わせ鏡の中心にうずくまる現実の僕を、氷のような温度でじっと見下ろしているのだ。迷宮の空気は、長いあいだ放置された水槽のように重く停滞し、呼吸をするたびに、肺の奥底が細かいガラスの破片で満たされていくような痛みが伴った。そんな絶対的な静寂と淀みの中で、丸一年という時間が、音もなくどろりと溶けていった。 外の世界では太陽が燃え、幾度も雨が降り、新しい季節がめぐっていたはずなのに、僕の迷宮には光の粒ひとつ届かない。僕はただ、無数の自分自身の死骸に囲まれたまま、時間の概念すら失い、永遠に等しい一秒一秒をやり過ごしていた。——その時だ。 突然、甲高い音を立てて、目の前の巨大なガラスが頭上から一枚、粉々に打ち破られた。 鋭い銀色の破片がスローモーションのように宙を舞う中、そのまばゆい向こう側から、見慣れた顔がひょっこりと姿を見せた。「バーン!」ああ……なぎだ。彼女は、夏の太陽をそのまま固めたような、あのあっけらかんとした笑顔で僕を見下ろしていた。 「ちょっとせんせー、何その大正時代の文豪みたいな暗さ。全然似合ってないよ」 「え……?」 「せんせー、書いてよ。私のこと。書いてよ、早く」 彼女は悪戯っぽく目を細め、胸を張った。 「私は素敵なんだって。世界で一番、最高の可愛いヒロインなんだって」 「……可愛い、か」僕は乾いた喉から声を絞り出した。「悪いけど、僕はSFはあまり得意じゃないんだ」 「か・わ・い・い。なぎは最高に可愛いヒロインって書くの。せんせーが、そうするの」はははっ、と鈴を転がすような彼女の笑い声が響き、そして、ふっと風のように消えた。 気がつくと、僕は再びひとりだった。 けれど、もう立ち上がれない「ひとり」ではなかった。重たい泥のようだった足に、不思議と力が宿っているのがわかった。突然、まぶしい光が顔を刺した。 なぎがガラスを割った光の残滓かと思ったが、違った。その方向を見ると、栞が部屋の重たい遮光カーテンを、勢いよく左右に引き開けたところだった。 一年分の埃が、窓から差し込む強烈な光の帯の中で、黄金色に乱反射してキラキラと踊っている。映画のワンシーンのように、空気の粒までが見えるような透明で圧倒的な光だった。「ああ……」僕は目を細めた。「いい天気なんだな」 「うん……」栞は振り返り、僕を見た。その目は泣き腫らしたように赤かったが、どこまでも柔らかく、深い優しさに満ちていた。ずっとこの暗闇に閉じこもっていた僕を、ただの一度も責めることなく守り抜いた瞳だった。 彼女はゆっくりと歩み寄り、立ち上がった僕の身体を、ぎゅっと強く抱きしめた。「今……ね」栞は僕の胸に顔を埋めたまま、ぽつりと言った。「すごく変な話なんだけど、私、なぎと喧嘩したの。大喧嘩」 「なぎと?」 「うん。言いたいこと怒鳴って、責めて、責められて。持っているボキャブラリーを総動員して悪口を言い合って、責任転嫁して。ほんと、女の喧嘩の最低な手を全部盛りにしたようなやり方で」栞は、ふふっ、と小さな声で笑った。「……でね、すっきりしたの。私、なんだかずっと、なぎに負い目があったから。あの子から、あなたを奪った卑怯者だって思っていたから。あなたが壊れていくのもバツなんだって。これでなぎは永遠のものになって、私からあなたを完全に奪ってしまう。ずっとそう思って怯えてた」窓から吹き込む初秋の風が、栞の髪を柔らかく揺らした。「そうしたら、頭の中で声が聞こえてきたのね。なぎの声で『しおりんの根暗ブス』って」 「……ブス」 「そう。もうカチーンってきたわ。メッチャ腹が立って。だから言い返してやったの、『この、わがまま小娘』って。『私は彼に抱かれたのよ』って」 「えっ」 「そうしたらあの子、『身体で誑し込んだ淫乱眼鏡!』って」栞は顔を上げ、少しだけむくれたような、でもどこか晴れやかな顔で僕を見た。「『淫乱眼鏡』って言葉には流石に腹が立ったけど、でも、図星だって気もして。それからもう、大バトルよ。ずっと痛いところから目を逸らしていたから。でも、言いたいことを全部ぶつけ合ったら、本当にすっきりしたの」栞の言葉とともに、僕の中に残っていた最後の重苦しい空気が、開け放たれた窓から青空へと吸い込まれていくのがわかった。 「根暗ブス」と「淫乱眼鏡」の罵倒合戦。なぎなら、間違いなくそうやって栞の堅苦しい殻をハンマーでぶっ叩いて壊すだろう。僕はたまらなくなって、声を出して笑った。栞も一緒になって笑った。「命日、現地に行ってみようと思う」 栞は真っ直ぐに僕の目を見て言った。「私も行くわ。『淫乱眼鏡』は事実だからしかたないとして、『根暗ブス』だけはまだ許せてないの。ちゃんとお花を手向けて、しっかり文句言ってやらなきゃ」見上げた窓の向こうには、どこまでも高く、澄み切った青空が広がっていた。 迷宮のガラスはもう存在しない。僕たちはようやく、同じ風の吹く場所で、新しい季節の光を吸い込んでいた。


雲ひとつない初夏の空が、ゆっくりと淡い茜色に溶け始めていた。昼間の熱気をたっぷりと吸い込んだアスファルトを、夕暮れを知らせる涼しい風が、撫でるように静かに冷ましていく。街の輪郭がわずかに優しさを帯び始めた都会の路地裏で、僕はふと足を止めた。剥げかけた掲示板の隅。季節外れの古いポスターが力なくへばりついている。『クリスマス・イルミネーション点灯式』。雨風に晒され、赤と緑のインクはすっかり退色し、ひどく間の抜けた過去の遺物のような顔をしてそこにへばりついていた。その色褪せた文字を見た瞬間、耳鳴りのような都会のノイズがふっと途切れ、代わりに「カン、カン……」という遠い踏切の音が鼓膜を打った。 心地よい、初夏の海風を切り裂いて、あの凍てつくような冬の匂いが、僕の胸の奥を強烈に締め付ける。*時間だけが、ただ残酷に過ぎていく。携帯電話などない時代。待ち合わせの時間は、とうの昔に過ぎていた。 底冷えする夜のプラットホームには、待合室に取り付けられた錆びた暖房の室外機が、ブーンという低く重たいモーター音を単調に響かせている。温風の恩恵は届かず、排気口から吐き出される無機質な唸り声だけが、僕の焦燥感を一定のリズムで煽り続けていた。足元を吹き抜ける冬の風は、見えない氷の刃となって、僕の体温と希望を容赦なく削ぎ落としていく。怒りよりも、得体の知れない不安が、黒い染みのように胸の奥に広がっていった。 何か、事故に巻き込まれたのではないか。 このまま二度と僕の前に姿を現さず、ふっと世界から消え去ってしまうのではないか——。室外機の唸り声と、金属が軋むような風の音だけが支配する孤独なプラットホームで、僕は彼女を「永遠に失ってしまうかもしれない」という恐怖に震えていた。 (それがのちに、取り返しのつかない現実として僕を打ちのめす、最も残酷な伏線であるとも知らずに。)その頃、栞は約束があるわけでもないのに、暖房の効きすぎた自室のベッドでひとり膝を抱えていたという。 窓ガラスにはびっしりと結露が光り、外の冷たい世界を遮断している。 「きっと今頃、二人は……」 彼が誰に会うために出かけていったのか、聞かなくてもわかっていた。行かないでと引き留められなかった自分がひどく恨めしい。嫉妬と焦燥で胸の奥がチリチリと焼け焦げ、誰もいない部屋でポツリと呟いた自分の声は、ひどく醜く響いたそうだ。「……いやな女」と。そんな彼女の孤独な夜を知る由もなく、僕はひたすらに白い息を夜空へ吐き出しながら待っていた。絶望で心が完全に凍りつきそうになった、その時だった。「せんせー、おまたせ」不意に、背後から星の瞬きのような無邪気な声が降ってきた。 振り返ると、頬と鼻の頭を真っ赤にしたなぎが立っていた。遅れたことを悪びれる様子は微塵もない。それでも、彼女の姿を視認した瞬間、僕の内にあった死ぬほどの不安は圧倒的な安堵へと一気に溶け落ち、怒りなど宇宙の彼方へ消え去ってしまった。なぎは一歩近づくと、不格好な毛糸のマフラーを取り出し、僕の首へとぐるぐると巻きつけてきた。 「ほら、あったかい」 なぎは悪戯っぽく笑い、「最後のとこが、うまく編めなくてさ」と少し照れたように付け加えた。 チクチクとした毛糸の奥から、彼女の微かな体温と、甘いようなウールの匂いが僕を包み込む。僕は悟った、僕は、この破格の女の子を失うのが、どうしようもなく怖いのだと。こうして無事に僕の前に現れてくれたこと、それだけで何よりも嬉しい。*……あの日の色褪せたイルミネーションの記憶を、初夏の青葉の匂いが混じる風が連れ去っていく。遠くで鳴るひぐらしの声に回想から引き戻された僕の視線の先には、都会の路地裏ではなく、見慣れた故郷の無人駅のホームがあった。現実の境界線は、すでに曖昧にひしゃげている。 隣のベンチ。僕からは決して侵さない、1.5メートルの距離。そこには、あの冬の日のまま歳をとらない彼女が、燃えるような夏の夕陽を透かして座っていた。「もっと、こっちに来ないの?」 なぎが、少し小首を傾げて尋ねる。「これでいいんだ」と僕は静かに答える。「こうして、君がここにいてくれる。それだけでいいんだ」 僕の答えに、なぎは少しだけ不満そうに唇を尖らせた。その時だった。 茜色に染まるコンクリートのホームに長く伸びた僕たち二人の影が、物理法則を無視して、スルリと動き出した。 肉体は1.5メートルの距離を保ったまま、微動だにしない。なのに、足元の影だけがその絶対的なルールを破り、ゆっくりと距離を縮めていく。僕の影が右手を差し出し、なぎの影がその細い手をとる。 夕陽が照らし出す無音のホームで、二つの黒いシルエットは優雅に、そしてひどく親密に、ホールドを組んで社交ダンスのステップを踏み始めた。 影が交差し、溶け合うたびに、触れていないはずの僕の指先に、彼女の冷たさと確かな存在感が伝わってくる。「楽しい」踊る影の向こうで、なぎはあのクリスマスの夜とまったく同じように、無邪気に笑った。コンクリートの床を滑る影たちのワルツを見つめながら、僕はゆっくりと目を閉じた。 指先に残る微かな痺れと、とうの昔に失われたはずの冷たい体温。胸を締め付けるほどの痛切な喪失感の中で、どうしようもなく愛おしい感情が込み上げてくる。ああ。あのときは、本当に楽しかったな。僕は誰に言うでもなく、茜色の空に向かって、静かにそう呟いていた。


見てはいけないものを、見てしまった。文化祭の喧騒が嘘のように遠のいた、薄暗いステージの袖。埃がスポットライトの光を乱反射して、まるで小さな星屑のように舞う中で。 シンデレラの衣装を纏ったなぎが、彼にキスをしているのを。(見間違いであってほしい) 強く願った。けれど、そんな都合の良い願いにすがる自分が、ひどく醜く、汚く感じられた。 あの雨の日、ひとつの傘の下で肩を寄せ合ったこと。くだらない話で笑い合った放課後。ただ一緒にいるだけで、胸の奥が温かくなるような気がしていた。満たされていたはずのその美しいトライアングルが、音を立てて崩れていく。 いや、違う。本当は、私は彼を独占したかったのだ。ぐるぐると、出口のない思考を繰り返しているうちに、時計の針は深夜を回っていた。開けっ放しの窓から滑り込んでくる秋風はひどく冷たいのに、過熱した私の脳を少しも冷ましてはくれない。 ああ、とても身体がだるい。もう、何も考えたくない。 頭の中を全部取り出して、冷たい水道水で洗い流してしまいたい。そうして、こびりついた記憶ごと消し去ってしまえたら。……なに、この感情。 どろどろとした、黒くて重たいもの。 ……嫉妬してる? ってことは、私は彼が好きなの?ずっと友情だと言い聞かせてきた。気の合う、趣味の近い大切な友人。だからこそ、今の心地よい関係を壊さないように、慎重に境界線を保っていたのに。 ……何故? そうしないと、私が彼を独り占めしたくなるからだ。「なぎよりも、私だけを視て」と、泣き叫んでしまいそうだったから。怖い。こんな自分が怖い。嫌な女だ。 とにかく身体が鉛のように重い。今日はもう、横になろう。 熱い瞼を閉じて、明日になれば。 明日になれば、一体なんだというのだろう……。「……休み?」抜けるような秋の青空の下、なぎはキョトンとした顔で聞き返してきた。 放課後の部室。少し冷たくなった秋の風が、彼女の細い髪をふわりと揺らす。今日は栞が学校を休んだことを、僕はなぎに伝えた。「無遅刻無欠席、健康優良のお手本優等生のしおりんが学校を休むとはねぇ」 なぎは飄々とした口調で言いながら、どこか見透かすような、悪戯っぽい瞳で僕を見た。 「文化祭の疲れが出たんだな。……放課後、ちょっと様子を見てくるよ」 「ふーん。いってらー」 なぎの軽い声が、高く澄んだ秋の空に吸い込まれて消えた。放課後。夕日が街を強烈な茜色に染め上げる頃、僕は初めて栞の家を訪れた。チャイムを鳴らすと、少しして栞の母親が申し訳なさそうにドアを開けてくれた。案内された彼女の部屋の扉をそっと開けると、カーテンが閉め切られた薄暗い空間に、いつもの彼女の——あの甘く清潔な柔軟剤の香りが、じっとりとした熱を帯びて充満していた。「……栞?」ベッドに横たわる彼女は、「孤高」と称される普段の凛とした姿からは想像もつかないほど、ひどく無防備で、幼い顔をしていた。熱のせいか頬は赤く染まり、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。 僕はプリントとノートを机に置き、彼女の眠りを妨げないよう、静かに部屋を出ようと背を向けた。その時だった。弱弱しい力で、しかし確かな服のすそを掴む栞。「・・・・帰らないで」かすれた、消え入りそうな声。 振り返ると、布団から這い出た栞の白い指先が、僕の制服の袖を弱々しく、けれど絶対に離さないという強い意志を持って掴んでいた。熱に潤んだ瞳が、僕を見上げている。 そこには、これまで誰にも見せたことのない圧倒的な「弱さ」と、隠しきれない切実な感情が溢れていた。「栞……」袖を掴む彼女の指先から、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。 なぎの持つ、世界を暴力的に書き換えるような猛毒の引力とは違う。この震える指先は、僕の良心と責任感を根底から揺さぶり、甘く温かい泥沼へと静かに引きずり込む力を持っていた。西日がわずかに開いたカーテンの隙間から差し込み、埃を黄金色に光らせながら、僕たち二人だけの影を床に長く伸ばす。 僕は自分の内側にある残酷さを自覚しながらも、抗うことなどできず、彼女の熱い指に自分の手を重ねた。そして、ベッドの傍らに崩れ落ちるように座り込む。こうして僕たちは、もう二度と元の美しいトライアングルには戻れないのだと、微かに気づきながら。小説『なぎのえき』こちらnoteでも更新しています。この世界観を活字でもお楽しみください。https://note.com/yuurishinohara/m/m928032f188db


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