「決して離さない」僕は心の中で固く誓い、その決意を物理的な重さとして証明するように、栞の細い肩を強く抱き寄せた。 僕たちは全身で互いを求め合い、夜の深い闇の中で、まるで難破船の木片にしがみつくようにして肌を重ねた。栞もまた、僕の背中に爪を立て、声にならない声を上げた。それは、僕たちを分かとうとするこの世界の理不尽な重力や、冷酷な宇宙の法則に対する、必死の抵抗だった。 離れることはない。絶対に。 夜の海が絶え間なく波を打ち寄せるように、僕たちはそのシンプルな約束を互いの体温で何度も確かめ合った。世界の書き換え目が覚めたとき、僕は「ひとり」だった。網戸越しに聞こえてくるはずの唐津の波音は消え失せ、代わりに、遠くの幹線道路を走る大型トラックの重低音が、ひどく無機質に鼓膜を震わせていた。窓から差し込む光は、朝特有の澄んだ青ではなく、排気ガスと都市の埃を通したような、濁った灰白色をしていた。 そこは唐津の広々としたマンションではなく、僕がかつて息を潜めるように暮らしていた、東京の狭苦しいアパートのベッドの上だった。起き上がり、部屋を見渡す。 小さなテーブルの上には、生ぬるくなったビールの空き缶が一つ転がっているだけだ。僕たちが毎晩頭を突き合わせて練り上げた事業計画書も、栞が熱心に付箋を貼っていたビジネス書も、忽然と姿を消していた。 冷蔵庫を開けても、彼女がいつも僕のために作ってくれていた色鮮やかな常備菜のタッパーは一つもない。クローゼットには、泊まりに来た時のために置いてあった彼女のカーディガンも、洗面台の端にあった二つ目の歯ブラシも、すべてが完璧に消滅していた。それは単なる「不在」ではなく、明確な「消失」だった。 まるで、世界という巨大なシステムを管理する見えない手が、バックスペースキーを長押しして、「栞」という存在の痕跡をこの宇宙から一行残らずデリートしてしまったかのように。僕は震える指でスマートフォンを操作し、栞の母親の番号へ発信した。数回のコールの後、電話口に出たのは、まったく聞き覚えのない、冷ややかな声の別の女性だった。 何度確認しても、共通の知人の記憶を辿っても、結果は同じだった。世界中の誰の脳内データベースにも、「栞」という人間は一ミリグラムの欠片も残っていなかった。この広大で無関心な宇宙の中で、彼女の体温と涙の記憶を保持しているのは、僕というただひとつのバグった端末だけになってしまったのだ。「また、守れなかった」両手で顔を覆うと、乾いた絶望が砂のように指の隙間からこぼれ落ちた。離さない。そんな子供でも守れるようなシンプルで小さな約束すら、僕は遂行できなかったのだ。迷宮の歯車としてスマートフォンの画面が淡く光り、無数の着信履歴を通知していた。 それは、僕がとっくに辞めたはずの、あの息の詰まるような東京の会社からのものだった。この栞のいない書き換えられたタイムラインでは、僕はまだあの無機質なビルに通い続けているらしい。 自分自身のどうしようもない怠惰さに、深いため息が出た。栞と二人で語り合った未来は、あんなにも色彩に溢れ、心臓が跳ねるようなワクワク感に満ちていたというのに。彼女という光を失った途端、僕はただ散らかった部屋でビールを飲み干し、感情を殺して惰性でシステムに寄生するだけの、空っぽな肉体の塊に成り下がっていたのだ。鉛を飲み込んだように重い身体を、無理やりベッドから引き剥がす。 手入れもされず、シワの寄ったグレーのスーツに袖を通す。ネクタイを締める行為は、自らの首に絞首刑の縄をかける儀式のように思えた。アパートの階段を降り、駅へ向かう僕の足取りは、ひどく重く、まるでおもちゃを取り上げられて拗ねている子供のように不格好に引きずられていた。会社に着くと、フロアの真ん中で、見覚えのない年下の上司から激しい叱責を浴びせられた。これも、世界線がズレたことによるバグなのだろう。栞のいたあの美しい世界では、こんな浅薄な男と交わることなど一度もなかった。「役立たずの老害」「ただの経費の無駄」「その疲れた顔が視界に入るだけで不快だ」「さっさと消えろ」彼は苛立ちを隠そうともせず、唾を飛ばした。 僕は彼の放つ悪意に満ちた言葉の羅列を、脳内で自動的に要約し、不要な装飾を削ぎ落とす作業に没頭した。そうでもしなければ、猛毒にまみれた過剰なボキャブラリーが皮膚から浸透してきそうだったからだ。僕は昔から、過剰に装飾された言葉を好まない。改めてそう実感しながら、怒りに顔を歪める彼を、どこか遠い別の惑星の生き物を観察するような目で静かに見つめた。確かに腹立たしい。しかし、この宇宙から「栞が消滅した」という圧倒的な絶望の質量に比べれば、目の前の男の罵声など、春先の砂埃程度の些細なノイズでしかなかった。いま、僕がすべきことは、こんな場所で魂をすり減らすことではない。僕は無言のまま踵を返し、オフィスのドアに向かって歩き出した。背後で上司が裏返った声で新たな罵詈雑言を喚き散らしていたが、僕の鼓膜には一切届かなかった。それは、栞を見つけるための有益な情報ではなかったからだ。摩耗する魂と、美しいコンクリートの迷宮僕は、世界から完全に消去されたはずの栞の痕跡を求めて、東京の街へと足を踏み出した。かつて彼女が一人で引きこもっていたマンション。二人で言葉少なに歩いた並木道。雨宿りをしたバス停。あてもなく時間を潰した巨大なショッピングモール。歩き続けているうちに、空はゆっくりと、しかし確実に色を変えていった。 西の空から血のようなオレンジ色が染み出し、それがビルの群れを包み込むようにして、深い藍色の夜へと溶け込んでいく。無数にそびえ立つガラス張りの高層ビル群は、夕暮れの光を鋭く反射し、まるでこの街全体が呼吸をする巨大な生命体であるかのように瞬いていた。美しい。残酷なまでに美しく、そして途方もなく冷たい景色だった。街は、出口のない巨大な迷宮だった。 幾重にも交差する歩道橋、地下へ地下へと続く無機質なエスカレーター、溢れ返るネオンサインのノイズ。「彼女はただ、この複雑な迷宮で少し迷子になっているだけなんだ」そう自分に言い聞かせることで、僕は辛うじて精神の形を保っていた。不思議じゃない。こんなにも巨大で入り組んだ世界なら、誰かがふいにはぐれてしまうことくらい。そう考えるだけで、胸の奥の重苦しい岩がわずかに軽くなる気がした。しかし、歩けば歩くほど、僕は確実に削り取られていった。 革靴の中で足の裏の皮が破れ、鈍い痛みが一歩ごとに脳を突き刺す。喉は砂漠のように渇ききり、関節という関節が、油の切れた機械のように嫌な音を立てていた。すれ違う何万という人々の波は、誰一人として僕の絶望に関心を持たず、ただの情報の束のように通り過ぎていく。頭上の巨大な街頭ビジョンが、無意味な広告を鮮やかな色彩で垂れ流している。 夜風が、汗ばんだシャツを冷たく撫でていく。世界のどこにも、栞はいない。 重力に抗いきれなくなった僕の足取りは次第に遅くなり、肺の奥には、都市の孤独という名の見えない灰が、少しずつ、だがあきらかに致命的な量で積もり始めていた。





