病院特有の、あの薄められた消毒液の匂いとぬるま湯のような時間から解放されたとき、季節はすでに決定的な夏へと舵を切っていた。退院した僕の小さなアパートで待っていたのは、クールな優等生というこれまでの輪郭を鮮やかに裏切り、意外なほど甲斐甲斐しく世話を焼く栞の姿だった。彼女は、僕の日常のディテールを整えるという行為に自らの重心を置くことで、危うかった精神の均衡を取り戻しつつあるようだった。 よく晴れた朝、ベランダで洗いたての白いTシャツを干す栞の後ろ姿を眺めていると、ごく自然に「ふたりの暮らし」という言葉がリアリティを持ち始める。家庭。それは決して悪くない響きだった。このまま彼女と生きていく未来は、きっと穏やかで幸福なものになるのだろう。声に出せばそのまま現実になってしまいそうなほどの愛おしさが、胸の奥で静かに満ちていくのを感じていた。そんな凪いだ水面のような日々に、ただひとつだけ落ちる濃い影がある。 なぎだ。 ドア越しに僕と栞が息を殺したあの夜から、彼女からの連絡は完全に途絶えていた。僕たちが密室で何をしていたか、なぎは知る由もないはずだ。だとしても、何度ダイヤルを回しても無機質なコール音が続くばかりで、彼女の声が受話器から聞こえてくることはなかった。体力を戻さなければならない。アパートに至るあの急な坂道を息を切らさずに登れるようにならなければ、僕の社会復帰はおぼつかない。 栞は、あの白昼の事故を完全に自分のせいだと思い込んでいる。僕が足を滑らせただけだと何度説明しても、彼女の心には届かないようだった。栞のその強迫的な自責の念を解きほぐすためにも、僕は早く元の自分に戻る必要があった。通院のたびに繰り返される検査。激しく頭を打ったのだから仕方がないことだが、そのたびに栞はひどく怯えた、泣きそうな瞳で僕を見る。彼女を安心させるためにも、僕は「軽い散歩だよ」と言い残し、真夏の住宅街へと歩みを出した。本当は少し走ってみたい気もしたが、無理は禁物だ。太陽は暴力的なまでの光をアスファルトに叩きつけている。視界の端で揺れる蜃気楼。住宅街の静寂を塗りつぶすように、蝉たちが命を削るような声で鳴きしきっていた。その圧倒的な音のシャワーを全身に浴びながら、ゆっくりと歩を進める。ふと、前方の路地へ曲がっていくひとつのシルエットが目に留まった。白いシャツ、高校の制服。そして、見覚えのある後ろ髪の揺れ。 なぎだ。 まさか、こんな場所にいるはずがない。しかし、僕の足は無意識のうちに、彼女が消えた細い路地へと吸い込まれていた。追えば追うほど、住宅街は複雑な迷路へと姿を変えていく。 木漏れ日が、舗装された道をまだらに染めている。庭先の木々の緑が、目を射るように鮮やかだ。蝉の鳴き声が、耳の奥で際限なく増幅していく。その隙間を縫うように、どこかの軒先でチリン、と風鈴が鳴った。みーん、みーん。チリン。その不揃いな合奏は、僕の意識を現実から少しずつ剥がしていく。 遠くなり、近くなり、しかし決して手の届かない後ろ姿。 距離が離れると蝉のノイズが世界を支配し、近づいたと錯覚した瞬間、風鈴の透明な音が響く。 迷宮だ。僕は巨大な迷宮に迷い込んでいる。 強烈な日差しと熱気が、僕の平衡感覚を狂わせていく。背中を伝う汗が、シャツを肌にべったりと張り付かせる。世界がゆっくりと、僕を中心にして回転し始めた。 めまい。ふわりと浮き上がるような足元。 風鈴の音だけが響く中、もう誰の姿も見えなかった。「もう、帽子をかぶってって言っているでしょ!」 玄関のドアを開けた瞬間、冷えた空気と共に栞の鋭い叱責が飛んできた。 その声を聞いて、僕は深く安息した。汗だくで立っている僕の額を、栞がタオルで乱暴に拭う。 あぁ、帰ってきた。ここが僕の現実だ。あの迷宮のような夏の午後は、熱気と焦燥が見せた幻だったのだ。栞の小言がまだ続きそうだったその時、部屋の隅で電話がけたたましく鳴った。 僕の東京での知人たちは、今では皆、僕が栞と一緒に暮らしていることを知っている。だから栞も、僕の部屋の電話に出ることに何の抵抗もなくなっていた。受話器の向こうから聞こえてくるのは、今の彼女にとって無害な日常の連絡ばかりだったからだ。受話器を取る栞の後ろ姿を、僕は冷たい水を飲みながらぼんやりと見つめていた。「え……」栞の背中が、不自然に硬直した。 異変を感じて彼女の顔を覗き込む。振り返った栞の表情からは、一切の血の気が失せていた。「……なぎが、亡くなったって」窓の外で、蝉の声が一瞬、ピタリと止んだような気がした。




