雲ひとつない初夏の空が、ゆっくりと淡い茜色に溶け始めていた。昼間の熱気をたっぷりと吸い込んだアスファルトを、夕暮れを知らせる涼しい風が、撫でるように静かに冷ましていく。街の輪郭がわずかに優しさを帯び始めた都会の路地裏で、僕はふと足を止めた。剥げかけた掲示板の隅。季節外れの古いポスターが力なくへばりついている。『クリスマス・イルミネーション点灯式』。雨風に晒され、赤と緑のインクはすっかり退色し、ひどく間の抜けた過去の遺物のような顔をしてそこにへばりついていた。その色褪せた文字を見た瞬間、耳鳴りのような都会のノイズがふっと途切れ、代わりに「カン、カン……」という遠い踏切の音が鼓膜を打った。 心地よい、初夏の海風を切り裂いて、あの凍てつくような冬の匂いが、僕の胸の奥を強烈に締め付ける。*時間だけが、ただ残酷に過ぎていく。携帯電話などない時代。待ち合わせの時間は、とうの昔に過ぎていた。 底冷えする夜のプラットホームには、待合室に取り付けられた錆びた暖房の室外機が、ブーンという低く重たいモーター音を単調に響かせている。温風の恩恵は届かず、排気口から吐き出される無機質な唸り声だけが、僕の焦燥感を一定のリズムで煽り続けていた。足元を吹き抜ける冬の風は、見えない氷の刃となって、僕の体温と希望を容赦なく削ぎ落としていく。怒りよりも、得体の知れない不安が、黒い染みのように胸の奥に広がっていった。 何か、事故に巻き込まれたのではないか。 このまま二度と僕の前に姿を現さず、ふっと世界から消え去ってしまうのではないか——。室外機の唸り声と、金属が軋むような風の音だけが支配する孤独なプラットホームで、僕は彼女を「永遠に失ってしまうかもしれない」という恐怖に震えていた。 (それがのちに、取り返しのつかない現実として僕を打ちのめす、最も残酷な伏線であるとも知らずに。)その頃、栞は約束があるわけでもないのに、暖房の効きすぎた自室のベッドでひとり膝を抱えていたという。 窓ガラスにはびっしりと結露が光り、外の冷たい世界を遮断している。 「きっと今頃、二人は……」 彼が誰に会うために出かけていったのか、聞かなくてもわかっていた。行かないでと引き留められなかった自分がひどく恨めしい。嫉妬と焦燥で胸の奥がチリチリと焼け焦げ、誰もいない部屋でポツリと呟いた自分の声は、ひどく醜く響いたそうだ。「……いやな女」と。そんな彼女の孤独な夜を知る由もなく、僕はひたすらに白い息を夜空へ吐き出しながら待っていた。絶望で心が完全に凍りつきそうになった、その時だった。「せんせー、おまたせ」不意に、背後から星の瞬きのような無邪気な声が降ってきた。 振り返ると、頬と鼻の頭を真っ赤にしたなぎが立っていた。遅れたことを悪びれる様子は微塵もない。それでも、彼女の姿を視認した瞬間、僕の内にあった死ぬほどの不安は圧倒的な安堵へと一気に溶け落ち、怒りなど宇宙の彼方へ消え去ってしまった。なぎは一歩近づくと、不格好な毛糸のマフラーを取り出し、僕の首へとぐるぐると巻きつけてきた。 「ほら、あったかい」 なぎは悪戯っぽく笑い、「最後のとこが、うまく編めなくてさ」と少し照れたように付け加えた。 チクチクとした毛糸の奥から、彼女の微かな体温と、甘いようなウールの匂いが僕を包み込む。僕は悟った、僕は、この破格の女の子を失うのが、どうしようもなく怖いのだと。こうして無事に僕の前に現れてくれたこと、それだけで何よりも嬉しい。*……あの日の色褪せたイルミネーションの記憶を、初夏の青葉の匂いが混じる風が連れ去っていく。遠くで鳴るひぐらしの声に回想から引き戻された僕の視線の先には、都会の路地裏ではなく、見慣れた故郷の無人駅のホームがあった。現実の境界線は、すでに曖昧にひしゃげている。 隣のベンチ。僕からは決して侵さない、1.5メートルの距離。そこには、あの冬の日のまま歳をとらない彼女が、燃えるような夏の夕陽を透かして座っていた。「もっと、こっちに来ないの?」 なぎが、少し小首を傾げて尋ねる。「これでいいんだ」と僕は静かに答える。「こうして、君がここにいてくれる。それだけでいいんだ」 僕の答えに、なぎは少しだけ不満そうに唇を尖らせた。その時だった。 茜色に染まるコンクリートのホームに長く伸びた僕たち二人の影が、物理法則を無視して、スルリと動き出した。 肉体は1.5メートルの距離を保ったまま、微動だにしない。なのに、足元の影だけがその絶対的なルールを破り、ゆっくりと距離を縮めていく。僕の影が右手を差し出し、なぎの影がその細い手をとる。 夕陽が照らし出す無音のホームで、二つの黒いシルエットは優雅に、そしてひどく親密に、ホールドを組んで社交ダンスのステップを踏み始めた。 影が交差し、溶け合うたびに、触れていないはずの僕の指先に、彼女の冷たさと確かな存在感が伝わってくる。「楽しい」踊る影の向こうで、なぎはあのクリスマスの夜とまったく同じように、無邪気に笑った。コンクリートの床を滑る影たちのワルツを見つめながら、僕はゆっくりと目を閉じた。 指先に残る微かな痺れと、とうの昔に失われたはずの冷たい体温。胸を締め付けるほどの痛切な喪失感の中で、どうしようもなく愛おしい感情が込み上げてくる。ああ。あのときは、本当に楽しかったな。僕は誰に言うでもなく、茜色の空に向かって、静かにそう呟いていた。




