
先日、静岡県伊東市で開催された、認定NPO法人レアーレワールドが主催するU-10サッカー大会「REALE CUP」に協賛させていただきました。
前夜に行われた懇親会でのことです。
主催者や関係者の皆様とお会いする中、ひとりの参加チームの監督と、かけがえのないご縁をいただきました。
関東から参加された「下丸子シューターズSC」の監督、鎌田次郎さんです。
初対面だったにもかかわらず、鎌田さんは「ヒノマールのことをSNSで知っていて、すごく興味を持っていたんです。まさか、ここでお会いできるなんて!」と言ってくださいました。その言葉を聞いた瞬間、私は胸が熱くなり、思わず涙が溢れそうになりました。
■ 震災の被災地に希望を灯した「伝説のヒーロー」との出会い

しかし、奇跡はそれだけでは終わりませんでした。鎌田さんは元Jリーガーであり、あのベガルタ仙台で“伝説のゴール”を決めたお方だったのです。
2011年3月11日。翌日にホーム仙台での名古屋グランパス戦を控えていたその日、激しい揺れが東北を襲いました。
そして、Jリーグが再開された4月23日。等々力陸上競技場で行われた川崎フロンターレ戦。
1-1の同点で迎えた後半42分、梁勇基選手が放ったフリーキックに、頭で叩き込んだ劇的な逆転勝ち越しゴール——。
それこそが、鎌田次郎さんのJ1通算初ゴールであり、打ちひしがれた被災地に大きな希望と勇気を灯した、あの伝説のゴールだったのです。
それを知ったとき、私の目からは再び涙が溢れて止まりませんでした。なぜなら、「ヒノマール」というボールは、まさにあの3.11から始まったストーリーだからです。
■ 絶望の気仙沼、そして富士山へ立てた不屈の「誓い」
時計の針を少し巻き戻します。
2001年頃、私は「ボールの芯が見えるようなトレーニングボールを作れないか」と考え始めました。
しかし当時は、「自分なんかが作らなくても、62億人の世界人口、きっと誰かが同じことを思いついて開発するだろう」と諦めてしまったのです。
けれど、頭の中からそのボールの存在が消えることはありませんでした。
そして、2011年3月11日。突然、大地が激しく揺れました。
私の妻は宮城県仙台市の出身です。
実は、翌3月12日に仙台のご家族へ私たちの結婚報告をするため、中部国際空港からの航空券を取っていた矢先のことでした。
石巻の水産試験場に勤めていたお義父さんからは、「津波から逃げる」という一通のメールを最後に、連絡が途絶えてしまいました。(※その後、津波の惨禍から3日目にお義父さんの無事が確認できました。)
震災から10日後、私は妻と共に宮城県気仙沼市へボランティアに入りました。
激しい余震が何度も襲い、目の前に広がる光景はまるで戦場でした。
震災直後、一般車両が入れなかった東北自動車道を通るための許可証
参加できたのはわずか1週間。自分の無力さに心身はすり減り、「何もできなかった」という強い絶望感に苛まれながらの帰路でした。
その途中、サービスエリアで立ち止まったとき、目の前に富士山が見えました。
澄み切った空気の中で雄大に聳え立つ富士山が、まるで私にこう語りかけているように感じたのです。
「おまえは、これから何をするのか?」
私は、富士山に向かって誓いました。
「一度諦めた、あの『芯が見えるボール』の開発に挑戦する。そして、未来を担う子どもたちに絶対に届ける」と。
絶望の淵から立ち上がる勇気をくれたのが、あの日の富士山でした。
被災地からの帰路、富士川SAにて(2011年4月)
■ 数時間前の「等々力」——点と点がひとつにつながった奇跡の1日

実は、伊東市で鎌田さんとお会いするほんの数時間前、私は川崎の等々力スタジアムにいました。
ホームチームのジュニアコーチがヒノマールに興味を持ってくださり、ご連絡をいただいたことでお伺いしていたのです。
そう、あの鎌田さんが15年前に伝説のゴールを決めた、まさに「等々力」の地です。
名古屋から立ち上がり、仙台への想いを胸に、等々力を訪れ、そして伊東で鎌田さんと巡り会う——。
あの日、被災地に希望の光を灯した伝説のゴールを決めた鎌田次郎さん。
あの日、絶望の中で立ち上がり、子どもたちの未来のためにボール開発を誓った私。
サッカーの神様は、本当にいるのかもしれません。
「名古屋・仙台・川崎」の縁が見事な一本の線でつながり、祝福されたかのような格別な一日となりました。

あの日から刻まれた情熱がつないでくれたこの運命的な出会いに、心からの感謝を込めて。
そして、ブランメル仙台の時代から年間パスポートを買い続けて応援している、熱烈なベガルタ仙台サポーターのお義父さんに、少しでも恩返しになれば嬉しいです。
ヒノマールは、これからも子どもたちの未来と共に走り続けます。



