はじめに・ご挨拶

 真言宗智山派 粟生山歓喜院定福寺は、四国中央部、高知県と徳島県の県境の吉野川流域の山間地域の大豊町にあります。
かつては豊永郷と呼ばれた地域であり、定福寺は豊永郷の中心の寺院でした。現在の大豊町の東北部に位置します。 
江戸時代の記録には724年に創建されたとあります。地域の人々や定福寺に御縁のある多くの方々によって1300年守られてきた寺院です。 豊永郷やには多くの古い風習や文化が残されています。定福寺にも珍しい行事や仏さま、経典、神像などが引き継がれています。豊永郷風景と定福寺の四季

このプロジェクトで実現したいこと

 お寺は「祈る場であり、学ぶ場であり、集う場である」ことが先師の記録よりわかります。定福寺の存続と伽藍の再建地域文化の保存のために、定福寺講堂を建設いたします。皆様のご支援を賜りたく、プロジェクトを立ち上げました。

 <寺院存続の危機>
 定福寺のある豊永郷は、人口が江戸時代約9,000人、戦後約23,000人、現在約3000人と大きく減少し、自治体では日本で最初の限界自治体とされた地域です。仏教はお釈迦さまが、布施で生活することの重要性をおっしゃられて以来、人が生活する場所でしか成り立ちにくい集団です。高知県下の山間地域の寺院は、廃寺となる場所もあり、今後そのような寺院が、増えていくと考えられます。定福寺もその一つです。これまでのように、お寺とお檀家さんの関係だけでは、存続が危ぶまれる状況になってきました。先師たちの記録を頼りに、祈りを中心としながらも定福寺ができることを見定め、文化の保存と活動をしなければならないと考えています。
 定福寺周辺、怒田地区・八畝地区

<伽藍の再建>
 明治の廃仏毀釈により寺子屋、経蔵、剣道場など多くのお堂を失いました。これまで150年間、多くの方々の支えで伽藍の再建を続けてきました。最後に再建されるお堂が定福寺講堂です。失ったいくつかのお堂の機能を講堂にまとめ再建いたします。
人々と定福寺を結ぶ中心的な建造物が、定福寺講堂です。

<地域文化の保存活動>
 定福寺は地域の文化を保存し、伝える活動や地域の歴史などを代々調査し記録してまいりました。先人たちにより蓄積された、史資料や情報を活用し、今後は、豊永郷の文化的拠点として、また山間地域の生活を伝え学ぶ場となることが、定福寺の存続のきっかけになると考えています。仏教の視点で現代社会の課題と向かい合いながら活動をしていきたいと考えています。豊永郷地区の古文書調査・豊永郷地区仏像調査(住職と寺族の作業風景) 豊永郷文化の拠点の一つとなる場所が定福寺講堂です。定福寺講堂パース
 豊永郷には図書館がございません。皆様にご自由に本に触れて頂く場所でもあり、研究や研修、講習会・講演会が行える場所としても活用する予定です。定福寺講堂パース
定福寺本堂 登録有形文化財(土佐藩主山内家建立) 定福寺が講堂を建設する詳細な理由は大きく3つあります。
(1)定福寺の存続と伽藍の再建、文化保存活動
(2)関東より不動三尊来寺
(3)檀信徒会館の老朽化(旧定福寺ユースホステル)

(1)定福寺の存続と伽藍の再建、文化保存活動
 定福寺は文化活動や、豊永郷の文化を伝えることが出来る寺院だと考えています。前述のように今後の山間地域の寺院を考えると、存続が危ぶまれる状況にあります。その中で定福寺の役割を考え、講堂を建設することにいたしましました。地域の文化活動の拠点を再建することに、定福寺の存続する可能性があると考えたからです。「祈る場、学ぶ場、集う場」という寺院になれればと思います。
 また、豊永郷の各地区は過疎のためにこれまでのように、したくてもできないことが多くなってきました。過疎となり浮き彫りになった文化的な問題を、定福寺が解決しようと活動を続けています。

<定福寺の再建>
 定福寺には明治の廃仏毀釈まで、本堂をはじめ12の堂宇があり、堂宇の中には経蔵と学ぶ場が一緒になった建物がありました。その他にも仁王門・鐘楼堂・十一面観音堂・持仏堂、剣道が行える建物があったと記録されています。これらの多くが廃仏毀釈の際、放火にあい焼失しました。以来150年の間に仁王門や鐘楼堂が再建されました。江戸時代に剣道の鍛錬に来られていた武家の朝倉家が、焼失した様子を悲しみ、自身の武家屋敷を寄贈し現在は持仏堂として、多くの方々がお参りにお越しになられています。


12の堂宇をすべて再建するのではなく、かつての役割を一つにまとめた講堂を建設いたします。かつての各お堂の役割には、不動三尊や仏像を安置する「祈る場」、経蔵は「学ぶ場」として、現代の図書館の役割を担っていました。「集う場」として研修や講習、講演を行うための教院がありました。これ等の役割をまとめて講堂を再建しようとしています。
 寺院の講堂とは僧侶が学ぶ場であり、伝える場です。仏教だけではなく豊永郷文化についても広く伝える場となればと考えています。

<地域文化の保存>
 豊永郷地域には多くのお堂や伝統文化が残っています。定福寺ではこれまで調査し保存活動を行ってきました。講堂を建設する際に、これらの文化財を安置し保存できるような場所も講堂の設計にはいっています。また調査結果を史料集として発刊する予定です。

 長年四国の山間の地で祈り、生活をする中で抱いていた様々な思いが、創建1300年、弘法大師生誕1250年の年に御縁を頂きひとつのプロジェクトとなりました。


(2)関東より不動三尊来寺
 不動明王座像・制多迦童子・矜羯羅童子をお迎えをする好機を得ました。不動三尊が安置されていた関東の寺院は、東京大空襲の折りに焼失いたしました。当時の住職が疎開をする時に、近くの土蔵に三尊を安置いたしました。終戦後疎開の地から帰ると寺院は焼失しましたが、土蔵は無事でした。寺院の再建はかなわず、一軒家を建立し安置していました。住職の子孫は僧侶とはなられなかったのですが、大事に安置され、後に神奈川に移住し手厚く護られてきました。
当時の住職の孫娘が、昔のように寺院に安置され、後世護られ多くの方に参拝されることを願い、仏師に修復を依頼されました。当時関東在住の仏師は高知に移住する予定があり、移住する候補の一つが豊永郷のある嶺北地域でした。移住の話で立ち寄った定福寺について、良い印象をお持ちいただき帰京後、持ち主の方にお話しをされました。その後、定福寺に安置頂ければありがたいというお話を頂きました。  
 不動明王座像は、定福寺の本尊よりも大きくお堂の建立が必要となるために、その場では軽々にお預かりすることが出来ませんでした。事情をお檀家様に説明したところ、快く了承を得て、定福寺に安置されることとなりました。古文書には、成田山新勝寺御分身として江戸に安置されていた不動明王、ということが記されていました。成田山新勝寺の記録などから、おそらく間違いないだろうと考えています。不動明王三尊を安置させて頂く好機得たことで講堂の建立を決意いたしました。

 不動三尊がお越しになられたことをきっかけとして、長年思い続けてきた山間地域の寺院の存続と在り方、祈り、地域文化への関与、定福寺を訪れる方々との接点について考えた結果、定福寺講堂を建設することとなりました。
 
(3)檀信徒会館の老朽化(旧 定福寺ユースホステル)
 現在檀信徒会館として使用している建造物の老朽化です。檀信徒会館は20年前まで定福寺ユースホステルとして運営されていました。若者や外国人にお寺や日本文化に触れて頂く場として、境内に25年前までありました。高度成長期の頃、お寺の縁側や境内で野宿をする学生が増え、様々なことを考慮し、ユースホステル協会から借り入れをし、1967年に定福寺ユースホステルを開業いたしました。外国の観光ガイドブックにも紹介され、多くの外国人や学生たちにお越し頂きました。閉館後は、定福寺の檀信徒会館として参拝の方々をはじめ多くの方々にご利用いただきました。
 現在の建物は約55年前に建設された物であり、漏電・雨漏り・排水管の異常などあり数年前から利用できなくなっています。危険な場所になる前に取り壊しが検討されていました。

私たちの地域のご紹介

<現在の豊永郷>

 定福寺のある豊永郷は急峻な山間にある地域です。豊永郷という名称は江戸時代から見受けられます。豊永郷は現在の大豊町の東北部になります。高速道路の大豊IC付近、大杉地区付近は江戸時代まで、本山郷であり行政区分が異なっていました。昭和の合併の際、豊永村と大杉村の一文字を取り、大豊町となりました。定福寺から西に進むと大豊ICまで12キロ、東に12キロ進むとJR大歩危駅となり、徳島県になります。定福寺から県境まで車で10分弱の距離です。  豊永郷のある大豊町を横断するように西から東に吉野川が流れ、豊永郷付近から吉野川は北上します。豊永郷付近の吉野川はラフティングの名流とされる場所で、修学旅行生なども含め多くの人々が訪れます。吉野川でのラフティング 豊永郷の象徴として標高1399mの霊峰梶ケ森があります。修験道の人々が修行した場であり、中腹には定福寺の奥の院や岩の間に御影堂があります。現在ではJR豊永駅付近に登山口があり、登山を楽しめる場ともなっています。また車でも山頂を訪れることができ、老若男女が楽しめる山となっています。 
 梶ケ森周辺は貴重な動植物が生息し、四季を通じて自然を楽しむことができます。山頂には山荘梶ケ森があり、春から秋まで営業しています。山荘には梶ケ森周辺の動植物を、調査した際の写真や様子が掲示されています。豊永郷を国道439号線(通称ヨサク)が通り、隣接する徳島県の祖谷地区や大歩危の温泉地に自転車やバイクで訪れる人もいます。梶ケ森と梶ケ森定福寺奥の院・御影堂

<かつての豊永郷から現在へ>
 豊永郷の西に隣接する地域にはかつて荘園の吾橋荘があり、南に隣接する地域には大忍荘の荘園がありました。両地域の史料より豊永郷も木材の産地であったことが伺えます。豊永郷が現在の集落の様子になったのは、鎌倉時代だとされています。
 
 1573‐1615年に制作された『長宗我部地検帳』に、長宗我部期以前からの支配下階級らしき人物と、長宗我部の家臣の名前が見え、共存していた様子がうかがえます。また藩政時代になっても、同様に山内家家臣が完全に支配するのではなく、これまでの支配階級が山内家の下で支配する地域となったために、中世からの文化が明治期まで引き継がれた貴重な地域となりました。
 『長宗我部地検帳』に登場する屋号は、現在でも8割ほど残っており、日本の原風景が残った場所の一つと元高知県歴史民俗資料館館長が述べられています。岩原神楽など古い形態を残した土佐神楽もあり、文化的に貴重な地域であると考えられています。
山内家藩主が旦那の棟札 明治時代まではお茶の生産が盛んであり、明治以降は養蚕、昭和後期からは柚子の生産が盛んにおこなわれています。 地理的にも各家だけでの生活が、厳しい地域であり、集落でお互いに「結(豊永では いい)」として、一緒に田植えや養蚕、道の整備、水路の整備など日常生活を、お互いに支え合いながら生活をしていました。

豊永郷の母屋、隠居屋のある集落 人が生活をするためには食べることが大切であり、現在のような山間地域ではなく、一面が田畑でした。長男夫妻が跡を継ぎ、その他の兄弟姉妹は社会の変化と共に大豊町外に働きに行く者が増えました。社会の変化により、町外で生活をする兄弟姉妹が、経済的に裕福となり、生活も便利になっていく様子を見て、長男家族も土地を離れ、新たな場所で生活し、農繁期に帰省する生活となりました。両親が他界すると田畑に植林をし、離れていくことになりました。 
 人口の減少は深刻なものとなっています。前述いたしましたが、江戸時代には約9,000人以上おり、戦後も約23,000人の人々が生活をしていました。2023年5月の資料では、人口は3186人、高齢化率63.6%の地域となっています。限界集落という言葉は、高知県の仁淀川町を元高知大学教授が、調査し提唱された言葉でした。大豊町には65集落、その内豊永郷は47集落あります。集落を束ねる自治体である大豊町が、日本で最初に限界自治体となりました。豊永郷の生活と信仰プロジェクトを立ち上げた背景

 プロジェクトを立ち上げた背景の1つは、定福寺の存続を考えなければならない時期になったことです。
 お釈迦さまによって起こった仏教ですが、お釈迦さまがお布施で生活をすることをおっしゃられた時から、仏教は人がいる都市部周辺や、一定の人が住む場所で成り立つ集団でした。山奥に寺院が存在するのは、各時代の政府や幕府、権力者の庇護があったからです。木材や様々な資源を供給する場所として必要な場所だった山間地域に人が住み、人が住む場所にお堂やお宮ができました。
 豊永郷に残るお堂とお宮 明治時代の廃仏毀釈は、高知県の寺院には大きな出来事でした。256の寺院やお堂が廃寺廃堂となり、真言宗の寺院は16ケ寺しか残りませんでした。吉野川流域では定福寺だけが残りました。地域の人々の嘆願や助力があったために、被害はありましたが廃寺を免れました。廃仏毀釈があった当時の住職の野本進甲師は、定福寺が護られたので、弟子に住職を譲り、自分は歩いて東は馬路村金輪寺から、西は土佐市高岡の清滝寺まで、数十ケ寺の寺院を復興した様子が、定福寺に残っています。明治時代以降の政策の変更により、各地域の人々によってお堂やお宮が護られることになりました。定福寺 野本進甲師 
 現在定福寺では、写経や写仏、仏教講座などを行っています。またNPO法人豊永郷民俗資料保存会が運営する豊永郷民俗資料館が隣接しており、「人と自然 道具と技術」をテーマに定福寺を護ってくださった、豊永郷の人々の生活の様子を伝えることで、現代の人々になにかを感じて頂ければと活動をおこなっています。定福寺、豊永郷民俗資料館で社員研修や学生の研修など、多くの活動が行われています。
 祈る場としての定福寺、過疎が進んでいますが、定福寺を支えてきてくださった豊永郷の人々の生活や文化を紹介する豊永郷民俗資料館。そしてそれらを繋ぐ役割を担う場所として定福寺講堂が建設されます。実際は一階建ての予定の定福寺講堂パース これまでの活動

 これまで、定福寺はお寺の文化に触れて頂くための活動や、多くの人々へのお寺からの布施としての様々な活動をおこなってまいりました。定福寺や豊永郷には古い風習や祈りが現在までも引き継がれる、貴重な場所だと感じています。先師たちの記録を見つめることで、定福寺のかつての様子がわかます。昔と変わらず現代にも重要なことがたくさんあると感じています。地域と関わりながら、また支えられながら生活をしてきたました。
六地蔵(笑い地蔵) 先師たちの記録が残る一つが、先述致しました豊永郷民俗資料館です。豊永郷民俗資料館の資料は、先々代釣井義光師が昭和30年代、法事の帰りに不要になった茶釜を、売っている人を見かけたことがきっかけで、収集されることとなりました。豊永郷で使用されていた綺麗な茶釜だったので、当時目方で90円で求めてきました。 
 お寺に帰り現長老釣井龍宏師と共に、これらの道具が捨てられているという話をしたそうです。以後、二人でご法事に出かけた際、不要な道具を譲り受け、当時の定福寺ユースホステルに300点ほどを展示いたしました。宿泊者の学生たちが、重要なことだと感じて、豊永郷の民家から12,000点以上の民具を収集いたしました。学生の中心に宮本常一氏の指導を受けていた元神奈川大学教授香月洋一郎さんや元淑徳大学教授谷沢明さんがいました。
 これらの民具の内2595点が重要有形民俗文化財に指定をされました。
 豊永郷民俗資料館 大工道具、下駄屋道具、桶屋道具 人口減少に伴い、地域の人々の風習が消滅する中、定福寺を護ってくださった人々の文化を今度は、定福寺が残さなくてはならないと決断し、NPO法人豊永郷民俗資料保存会を立ち上げました。豊永郷文化講座や豊永郷文化通信などを発行し、募金活動を行い、20年越しに豊永郷民俗資料館を建築致しました。
 豊永郷民俗資料館のテーマは「人と自然 道具と技術」です。現在は、豊永郷の人々の生活を伝えると共に、豊永郷の人々がどのように自然と共生し道具と共に生活をしてきたのか、また道具と技術によって、我々がどのように考えて来たのかなどを伝え、社員研修や学校研修に利用されています。
 豊永郷民俗資料館 生活道具 先師の記録が残るもう一つは、地域の史資料です。この調査を長年行っています。寺族が学芸員の資格を取得し、定福寺を支えてくださった地域の人々の思いや、文化を残すための活動を行ってきました。3年前より奈良文化財研究所のご協力の下、仏像の調査をおこないました。本年からはご法事の際に収集した、各家に残る文書をデジタル化し目録作りと資料集作りを、NPO法人地域文化計画と共に行い、報告書を来年発刊の予定です。また来年から数か年をかけ、高知城歴史博物館と共に定福寺に残る資料のデジタル化、目録作りをおこない、同様に資料集を発刊いたします。定福寺に関わる豊永郷の資料を制作することで、後世の学生や研究者たちが豊永郷を調査する際の資料になればと考えています。豊永郷に残された史料 身体を動かす活動として、定福寺には剣道場があり多くの方が鍛錬をされていたようです。以前クラウドファンディングを利用し、駐車場兼多目的スペースを開設いたしました。コロナの影響もあり思うようには利用されていませんが、お陰様でお年寄りのウォーキングの休憩場所となったり、子供たちが遊んだり、サッカーをしたりと活用され、また行事の際は駐車場として利用されています。
仁王門からの星空 定福寺では、仏教の視点から心の活動や考え方を伝える活動を行っています。豊永郷民俗資料館では「人と自然 道具と技術」をテーマとして、定福寺を支えてくださった豊永郷の人々の生活を通して伝える活動を行っています。閉館をいたしましたが、定福寺ユースホステルのヘルパーをしてくださっていた学生さんたちが考えた、豊永郷のトレッキング、サイクリング、梶ケ森登山など五大修行を加え、社員研修、学校研修を受容れています。出張講座にも寄せていいただいております。
  これらの活動を結ぶ定福寺講堂の建設に是非ご協力を頂きたいと思います。豊永郷民俗資料館、駐車場兼多目的広場、定福寺  

資金の使い道・実施スケジュール

これまで、5年間かけて各所に御寄付のご協力をお願いに参りました。コロナ感染症と物価の高騰により、厳しい状況にあります。皆様にご協力いただいた支援金は、すべて講堂建設とCAMPFIREの手数料に利用させていただきます。

講堂は当初2階建ての予定でしたが、概算見積もりが186,560,000円となり断念し、再度1階建てで設計をし概算費用は、122,837,000円となりました。
建設のスケジュールですが、2023年9月から解体と建設が始まり、2024年5月頃には完成する予定です。

定福寺講堂設計図

リターンのご紹介

・散華(さんげ)
 散華は、尊い存在を招き入れる際に使用していた花びらを模しています。真言宗では読経と共に花びらを蒔きます。定福寺の散華は、定福寺の次女であり京都美術院仏師が定福寺の仏さまを思い描いたものです。その裏には、現長老釣井龍宏師の言葉が記されています。

・巻紙に記録
 寺院では、重要なことは和紙に認め保存されます。御支援いただいた方のお名前を和紙に記し、永年保存致します。掲載の有無や掲載のお名前は備考欄にご記入ください。お名前は15文字以内でお願いいたします。

・宝物殿年間パス
 定福寺の文化財が展示されている宝物殿の常設展・企画展をご自由にご覧いただけます。
 *宝物殿は年末年始休館

・定福寺発行物送付(発刊次第)
 2024年に発刊される定福寺史資料集を送付いたします。名前・巻数は未定です。

・定福寺の歴史と文化財(本)
 定福寺の文化財を主に紹介した平成11年発行の本

・木札に名前を記録
 木札に名前を記し、講堂内に永年掲示させていただきます。掲載の有無や掲載のお名前は備考欄にご記入ください。お名前は15文字以内でお願いいたします。講堂内にこのような名札を掲げます・境内石柱建立
 定福寺ではある一定以上の御支援を頂いた方は、境内に石柱を建立させて頂いております
 掲載の有無や掲載のお名前は備考欄にご記入ください。お名前は15文字以内でお願いいたします。境内にこのような石柱を建立いたします・落慶法要招待状
 落慶法要にご招待させていただきます。ご案内は落慶法要の詳細な日程が決定次第お届けいたします
日程:予定は2024年5月頃となっています。
場所:高知県定福寺講堂。
定員:30名
*交通費は自己負担でお願いいたします
*滞在は、山荘梶ケ森宿泊者にはクーポン券をお届けいたします
*山荘梶ケ森までは定福寺からバスが出ます。講堂の落慶法要にご招待いたします
・研修・講習会(50名以下・出張可)
 定福寺、豊永郷民俗資料館、サッカーなどを踏まえた社員研修や学校研修、または講習会などを定福寺講堂で行います。
 当地までの交通費は自己負担となります。滞在は、山荘梶ケ森をご利用の場合はクーポン券をお届けいたします。定福寺から山荘梶ケ森までは、バスが出ます。
 講師が各地に出向くことも可能です。講師謝礼・交通費・滞在費はリターンに含まれます。日程や内容は調整いたします。

・ガイド(50名以下)
 ガイドは、梶ケ森を山荘まで動植物ガイドを行いながら登山いたします。専門のガイドがご案内いたします。日程や内容は調整いたします。
 内容:梶ケ森龍王の滝から山荘梶ケ森まで、大豊町観光ガイドが動植物をガイドしながら登山を行います。
 装備:登山に適した靴、飲食物などはご持参ください。

山荘梶ケ森
 山荘梶ケ森のある梶ケ森には、定福寺の奥の院や御影堂があります。定福寺から一番近く、大人数が宿泊できる場所となっています。天体望遠鏡が設置され、2023年夏にリニューアルされています。梶ケ森には多様な動植物がおり、詳細に調査もされ、山荘梶ケ森に掲示されています。定福寺と様々な面で相互協力をいたしております。
梶ケ森と山荘梶ケ森

* 290万円以上のご支援をお考えの方は、直接ご連絡を頂ければと思います。


< 支援金額別リターン一覧>

① 5,000円

② 10,000円

③ 30,000円

④ 50,000円

⑤ 100,000円

⑥ 500,000円

⑦ 1,000,000円

⑧ 2,000,000円

⑨ 29,000,000円



最後に住職より

 サラリーマンを辞職し、僧侶となりました。最初に時間の感覚が違うことに気がつき、「する」と「なる」の違いを実感いたしました。僧侶になった後「なる」という感覚の重要性に気がつきました。何をしていても、24時間、365日僧侶なのです。お堂を閉めた後、自分の時間が始まるのではなく、僧侶としての時間が続くということに気づかされました。厳しい環境の豊永郷で、生活をするためには何が必要なのかを考え迷いながら、今日まで豊永郷で生活をしてまいりました。
 定福寺 大賀蓮 
京都の智積院での修行が終了し帰山すると、本山では教えられなかった祈りや考え方や沢山の民具がありました。僧侶の学びと並行し、帰山1年目から祈りということに興味を持ちました。チベットやインド、アフリカ、ポリネシア、北海道、沖縄にまで思いを馳せ、豊永郷の人々からも話を聞いています。タシルンポ寺僧侶による砂曼荼羅作成と灌頂 その中で歴史や文化など地域の人々のことを知ろうとし、地域の人々から話を聞かなければ、その地域の事は理解できないと感じ始めました。この思いを出発点とし、定福寺の師や京都の師、東京の師、様々な分野の師、豊永郷の師。多くの人々に支えられながら教えられる中で、様々なご縁を頂き講堂の建設にたどり着きました。不動三尊の来寺という希少な出来事をきっかけとして、これまでの思いを形にし、定福寺を存続させるための手段として、定福寺講堂の建設を決定いたしました。
 大変な社会状況の上に厳しい状態が続いている中、今回のクラウドファンディングは、藁にもすがる思いで、定福寺の先師や住職の思いをご理解いただき何とかご支援を賜りたいと思いプロジェクトを立ち上げました。
 4月1日の定福寺本堂 寺院は無くなる可能性があります。無くなるのは地方の寺院からです。自然選択と考えることもできますが、豊永郷の人々や信仰を持つ人々、先人たちの思い、定福寺に縁のある人々のことを考えると、何もせずにいることはできません。廃仏毀釈で経験したように、僧侶やお寺を支えてくださる方々が、このお寺は必要だと思ってくださらなければ存続しませんでした。存続するためには、定福寺の価値や潜在的な力を見つめ直し、行動し受け入れられなければ、お寺は存続しないと感じています。
 今、定福寺は帰路に立っています。
 この場所で祈りを続けることが出来るように、今、あらゆる可能性を探らなければならないと思います。
 定福寺は、先師の活動や祈りを知り、それらを現代の視点で再建させることを選択し、定福寺講堂を建設することにいたしました。先師が示すように、つながろうとする活動と真摯に祈ることに定福寺の未来を託したいと思います。
 ご支援を宜しくお願いいたします。
 

<募集方式について>

本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。

  • 2024/04/08 12:10

    こちらの活動報告は支援者限定の公開です。

  • 2023/10/16 22:07

    解体工事と資材の搬入路の工事が始まりました。変わらぬご支援と情報の拡散を宜しくお願いいたします。

  • 2023/09/07 11:10

    ご支援を頂いている皆様ありがとうございます。本当に励まされます。修正後の設計図が今週完成しました。資材の高騰などの理由で再度設計を行いました。GWから工事車両搬入路の工事、解体作業が始まる予定でしたが、9月の中旬から始まります。

このプロジェクトの問題報告はこちらよりお問い合わせください