僕は何人なのだろう?
とても永い間、そのような問いかけは自分にしてきませんでした。
僕は普通に日本で暮らし、普通に日本の学校の教育を受けて、日本の大学に入って、そのまま日本人ロシア人関係なく社会で活躍していきたい。
そう思っていました。
大学に入ってからは僕はごく普通の日本の大学生としてですが、色んなチャレンジをしました。議員事務所でインターンしたり、NPOを立ち上げようとしたり、起業しようとしたり、等々。しかしこれらのことはあまり上手く行かずに頓挫してしまいました。
その原因は良く良く考えると、自分はやりたいことだけをひたすらやっていて、それは人にとってどんな意味があるのか?ということを考えていなかったことにありました。反省も多くあり、2年の5月後半頃から、私は約半年、沈黙しました。
そして僕が大学2年生後半の頃のこと。
僕はそれから2年と少しの後、社会に出なければいけないkとに気づいたのです。自立して、生きていかなければならない。しっかり働いてしっかり稼いでしっかり生きて行く、他の人と対等に。どうすれば自分が社会と共存できるのか?どうしたら自分も周りの人も一緒に生きていくことができるのか?
そう考える内に、僕は人から見てどんな人なんだろう?って考えるようになりました。そこで行きついた答えが、日本人にとっては、私は「日本で暮らしてきたロシア人」ということでした。他の要素は変わる可能性がありますが、このことだけはおそらく不変の事実なのでしょう。
かといって現地に暮らすロシア人とはまた違うのでしょう。やっぱり生きてきた環境、教育などなど。
自分は日本人ではないが、ロシア人でもない。だが「日本内のロシア人」なのかもしれないと、その時から考えるようになりました。
僕はこの感覚を持ったまま、「日本内のロシア人」としてできることを探して、とりあえず字幕の翻訳の仕事をやってみました。ロシアのニュース映像に日本語の字幕をつける仕事でした。
そうしたら驚くことに。自分にとっては気持ち良く、お金も入って、それから人に需要されていた仕事だったのです。ロシア人と日本人の両方の感覚をある程度備えている僕にとっては、ロシアのことを日本人の感覚に伝えて聞き手に伝えることはとても気持ち良かったのです。まるで、今まで理解されてきてなかった、明かしてこなかった自分を、人に伝えるときのように。
感情がとても高揚する仕事、自分の生計が立てられる仕事、そして人のためになれる仕事。これは最高だろうなとその時思いました。
その頃から僕は自分により合う手段を模索し続けました。一時期は日本にロシア地方のハンドメイド製品を売るということもやっていました。それもまた、ロシアのハンドメイド製品の素晴らしさを通じて、ロシアを日本に届けることがコンセプトでした。
そこで、ロシアの地方の可能性は無限大であることに気づきました。商品はとにかく高価に、原価の数倍分に売れたのです。
その頃の活動の僕の中で結論として生まれたのは、ロシアの地方のポテンシャルを引き出すためには国外との直接的な関係を作らなければいけない、販路を国外に届けなければいけない、ということでした。なぜならロシアの地方はロシアのみのお金によって十分に創生できないからなのです。
ロシアの地方に暮している人にとってはより良い生活、日本でのお客さんにとってはより良い商品。ロシアにとっては不足している外貨の地方、そして国のレベルでの流入。そして国力の民間からの底上げ。日本にとっては拡大する民間関係の中で新しく生まれるロシア地方市場。日ロ関係にとっては多層的で本質的な中身、そして信頼構築。
そんなことが、ロシアの生かされていない魅力と日本を結ぶことによって生まれ得ることに気づいたわけなのです。
以上が、僕がロシアの地方としてのサハ共和国にも大きく見出している可能性であり、今回の企画で自分の認識がさらに深まり現実ベースに落とし込めるようになることを強く期待しています。それが私が日ロ協力のフロンティアの可能性になることが高いサハ共和国に自ら足を運び入れたい第一の理由なのかもしれません。
地方の観点以外のものも複数ありますが、僕は自分が温めているアイデアの実現に向けて人材業界から入っていこうと現在は決めています。僕の今やろうとしていることも、将来成し遂げたいことも、1つの芯が強く通っています。それは「日本内のロシア人」として、人のため自分のために、最大限の価値あることをしていくこと。そしてそれによって、自分の大事な一部分でもある日本とロシアの1つの共同の未来を提案し、創ること。
こんなことを実現するそしてそこでまず何から始めなければいけないのか?僕が出している答えは、
「日本内のロシアを顕在化させること」
です。
それについてはまた今度の記事にて執筆させていただきます。長文お読みいただきいつもありがとうございます<(__)>