2017/11/30 21:44

こんにちは、事務局長の小島です。
昨日は、わたしの原点となった10代での2つの経験をお伝えしました。
わたしが活動する理由(1)~10代の頃の2つの原点

今日は、大学生になって、それからの人生を大きく変えることになる、プラスとの出会いについて、みなさんにお話します。

「アフリカの真珠」

大学3年生のとき、授業でドキュメンタリー映画をみました。
舞台は、ウガンダ。

国際協力や開発経済を勉強していた私は、「アフリカ」と聞くと、貧困や紛争といった、「外からの助けが必要な国々」というイメージを持っていました。

けれども、そのドキュメンタリーには、紛争に翻弄されながらも、懸命に生きる子どもたちが描かれていました。
(*ウガンダ北部では1988年から2006年まで、政府軍と反政府武装勢力との内戦が続いていました)

そして、映像のなかの美しいウガンダの風景に魅了されました。
広大な空の下に広がる赤土の道、風にそよぐバナナの樹々の濃い緑・・・
ナイル川の源流があるとされ、「アフリカの真珠」とうたわれていることも知りました。

「一度でいいから行ってみたいー。」

就職先が決まり、夏に大学を卒業した私は、働きはじめるまでの間、肩書のない自由な時間がありました。そこで、ウガンダの現地NGOでインターン先をみつけて、飛行機のチケットをとりました。帰りのフライト日程、未定。

出発まであと少しという日、あるボランティアで仲良くなった友人に再会しました。
「ウガンダっていう国、知ってる?今度行くんだよー」

そしたら、友人はこう言いました。
「ちょうど、エイズ孤児を支援する活動を仲間とはじめたばかりで、現地でしばらく動ける人を探してたんだ」と。
そして、「せっかくウガンダに行くなら、やってみない?」と。

それが、プラスとの出会いでした。

こうして、エイズ孤児について何も知らない、アフリカに行くの初めて、という私が、プラスの初めてのプロジェクト、「学校建設プロジェクト」に携わることになりました。

「エイズで親を失っても、学校に通える。そんな当たり前の社会をつくりたい。」

このプロジェクトは、エイズ孤児が多く暮らす、首都カンパラ郊外のスラム地域で小学校を建設することからスタートしました。

当時、エイズで親を失ったというだけで、差別や偏見によって学校に受け入れてもらえない子どもたちが数多くいました。
また、勉強したくても学校の数が足りず、教室に入れない子どもたちも。
屋根は破れていて、床も張られていないから、雨がふると足元は泥だらけ、小さな教室に数十人の子どもたちがぎゅうぎゅう詰め。



そんな現状を変えようと、小さな学校を地域に開いた校長先生と一緒に、木造校舎の教室の全面改築を行いました。

日本からも、ウガンダからも、同世代のボランティアが集まり、朝から暗くなるまで建設作業。
そして、小さな木造校舎は、大きなレンガ造りの校舎に生まれ変わりました。



さらに、エイズ孤児たちへの差別や偏見をなくすために、地域住民や子どもたちへのエイズ啓発も実施。
そうして、支援当初は80名だった生徒数が180名になり、多くのエイズ孤児たちが通えるようになりました。



「何もできなかった」という無力感

そこで出会ったデリック、という男の子がいました。
両親をエイズで亡くして小学校をドロップアウト、もう一度小学校に通えるようになったとき、13歳になっていました。

お姉さんと暮らしていましたが、家計は苦しく、小さな赤ちゃんがいたお姉さんは、ある日、親戚を頼り、デリックをひとり置いて、家を出て行きました。
学費が払えなくなり、せっかく通えるようになった小学校を諦めてしまったデリック。
家賃も払うことができなくなり、ある日、デリックは行方不明になってしまいました。

地域の人たちに聞き込みをしながら、数日後にやっと見つけた彼は、破れた服を着て、沼地のはずれの小さな小屋の中で、うずくまっていました。

「パイロットになって世界中に行ってみたい」と話してくれたデリックは、ケガをした足に、どうやって手当したらいいか分からなかったから、と塩を塗って痛みに耐えていました。

このとき、「どんな状況であっても、人は自分の力で未来を切り開いていく可能性をもっている」という、ずっと信じていたことが、一瞬、揺らぎました。
そして、子どもたちが未来を切り拓くためには、たった一人では切り拓いていけなくて、その可能性を信じて、支えていく、誰かの存在が必要なのだと感じたのです。

日本への帰国が迫るなか、私は小学校に頼みこみ、引き取り先がなかったデリックを学校の用務室に住まわせてもらうことに。
その部屋には、デリックと同じような境遇のエイズ孤児たちが寝泊りしていました。

ウガンダに飛びこんで3カ月。
「何も変えることができなかった・・」と無力感を感じながら日本に帰り、すでに内定が決まっていた会社へ就職しました。

当時、メンバー全員が無給スタッフ、事務所なし、年間の運営資金は100万円もなかったプラスのボランティアだった私が働くことになったのは、従業員数が世界で24万人、総資産2兆ドルの外資系金融企業でした。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
この次は、外資系の証券会社で働き始めた私がぶつかった壁と葛藤、そして、人生を変えた一本の電話についてお話します。