ご賛同くださっている皆さま、本当にありがとうございます。
今まで弁当の日を知らなかった、という方々が毎日少しずつご参加くださっており、とても嬉しくありがたく思います。
さて本日は、先日友人達といたしました鶏さばきワークショップの様子をお伝えいたします。
当たり前ですが、生きている鶏の命を断ちます。包丁で。
これは私の意見ですが、ここを見て見ぬ振りをするならば、食べ物をいただく資格はないのではないか、と。
鶏の心臓に手を当てていると、弱っていき、そして止まるのがわかりました。血もたくさん出ます。
お湯につけ、羽をむしり、解体し、調理をし、ようやく口に入る。そして鶏だった彼らと私の肉体が一つになる。
食べることは生きること。命をいただくこと。
と、頭ではわかっていて、言葉は知っていても、実際に自分で手をくだすとなると、心臓はドキドキし、手は震え、複雑な思いが去来します。
私の家は飼っていた鶏をさばいて食べていました。小さい頃から見慣れた光景ですが、未だに慣れることはありません。
何のために食べるんだろう。
ここまでして食べなくてはならないのか、そんなことも深く考えます。
目の前の鶏は何も私に危害を加えていない。でも私は鶏に危害を加えるわけです。自分の命をつなぐために。
facebookに書き込んだり、車を運転したり、友人達と酒を飲んで語り合ったり、自分の幸せのために何にも悪いことしてない目の前の鶏をさばくのです。確信的に、自分以外の生き物の命を亡くすという行為をするのです。
生きているだけでたくさんの命を『奪っている』のです。
逆の立場なら納得できますか?
いきなり押さえつけられて首を刃物で切られるんです。なんでだー!私何か悪いことしたのかー!と絶叫しても、「いや、私が生きる為なの。悪いね」という説明しかない。納得できます?成仏できそうですか?
命をいただくのいただく、ってなんとなく綺麗に聞こえる。
正確にはいただくのは命を奪った後。本来もっと自由に生きることができた命を私は奪っているのだという自覚があるとしたら、奪っている命で生きている私は、その償いのためにも一生懸命生きる義務があると思っています。
私が『弁当の日』をたくさんの人に知ってもらいたい理由、それは「自分を律する大人にならない限りは自由な人生を生きることが出来ない」ということを、子どもたちに知って欲しいからなのです。
そしてそうした生き方ができるのは、真に感謝の心を持った時だけであるということも。
人から食べ物を与えられているだけで、感謝の気持ちなんか自動的に芽生えるわけがない。
自分で自分の食べるものを本気で手に入れてみる。
自分の弁当を作ることは、その第一歩と思う。
買い出しから片付けまでだって、やってみないとわからないのです。
それすらできないで、「自分を律する大人」になることは難しいし、そこで満足してしまうのもまた違う。まだまだその先があるのだから。
自分の命はどうやってできているのか。その答えを探す入り口が私は『弁当の日』だと思う。
与えられてばかりいたら何もわからないよ。自分の人生が始まらないよ。
自分の人生の幸せは自分で摑み取れ。
コンビニの弁当や売られた菓子パンにその答えはない。
『弁当の日』が広がって欲しい。
心から私はそう願っています。
映画弁当の日広報
土岐山協子