2020/06/19 15:00

みなさんこんにちは。2回目の担当が回ってきました。しめさばです。


前回活動報告を書いてからもたくさんの方にご支援いただき、本当にありがとうございます。パレードをやっていると、楽しいことばかりではなく、大変なこと・辛いことももちろんあるわけですが、みなさんからのご支援にはとても励まされます。


さて、のんさんから「しめさばさんのスポーツ歴を知りたいです!」との質問をいただきました。実はちょうど先日のブログで、かまえいとてる子がスポーツについて書いているのを見た時から、私もスポーツについて書こうと思っていました。でもそれは、私がスポーツが好きだからではなく、嫌いだからです。正確には「嫌い」だからです。鉤括弧付きの「嫌い」です。こんなネガティブなことを書くと実行委員長から怒られそうですが(笑)、どうしても書きたいので書きます。


初対面の人と話している時、好きなスポーツ・スポーツ歴・中高での部活などの話になる時がありますよね。私はたまに「スポーツしてそう」と言われることがあるのですが、これまでの人生でまったくスポーツをしてきませんでした。中高とずっと帰宅部でした。入りたいスポーツ系の部活も(文化系の部活も)ありませんでした。ほぼ唯一のスポーツ経験は学校の体育くらいでした。でもこの体育が強烈に嫌いでした。特に中高の体育は。中学の成績表を引っ張り出してみたのですが、5段階評価のうち、他の教科はどうにか頑張って4とか5があるのに、体育に限っては見事に3ばかり(笑)。他と比べて不真面目さが目立ちます。基本的には運動音痴なのも理由の一つですが、でも大きな理由は他にあります。


中学校に入る時、本音では部活に入りたいと思っていました。できればバドミントン部かバレーボール部に。ところがなんとも珍しいことに、私が進学した中学校はバドミントン部もバレーボール部もない中学校でした。新生活にドキドキしていた私はここでまず出鼻を挫かれ、帰宅部にならざるを得ませんでした。そして高校に進学した時、同じく部活に入りたいと思いました。バレーボール部はなかったけれどバドミントン部はあったので入ろうかと思いましたが、そこは経験者の巣窟。初心者で無経験の私が入るにはハードルが高く、結局バドミントン部には入らず、代わりに体操部に入りました。理由は単純です。ひとつは、みんな初心者からスタートだったのでハードルが低かったから。ひとつは、珍しいしなんか格好いいしモテそうだから。もうひとつは、なぜか私を猛烈に勧誘してきた知らない先輩がとてもかっこよかったから。そんな不純な(?)動機から軽い気持ちで入った体操部でしたが、やっぱり自分には向いておらず、3ヶ月程度でやめてしまいました。また帰宅部へ…。


体育で経験したスポーツも一度も楽しいと思ったことはないし、何一つとして自分に合ったスポーツと出会えた記憶がありません。でもその理由の一つは、小学校から高校と、12年もある中で経験したスポーツが極々わずかだったからなんじゃないかと、ずっと思っています。これはもしからしたら私が通ってきた学校がたまたまそうだったのかもしれませんが、12年間の体育でやったスポーツなんて、サッカー、バスケ、陸上、バレー、柔道、水泳、スキー。ざっとこんなもんです。なんで12年もスポーツをやらされているのに、こんなごくわずかなスポーツしかやらされないんだろう。世の中にはもっともっとたくさんのスポーツがあるはずなのに。もらった体育の教科書でもたくさんのスポーツが紹介されているのに…。ずっと、そう思ってきました。もちろんそこには、設備費用的に学校は全てのスポーツを提供できないといった理由があるのは想像できますが(例えばフェンシングの道具一式を提供するだけの資金はないでしょう)、それでも、もっといろんなスポーツを経験させて欲しかった、と今でも思っています。結局私は、スポーツが嫌いなのではなく、自分に見合ったスポーツを知る機会がなかっただけなんだと思ってます。自分にフィットする「靴」に出会えなかった私が体育の授業が「嫌い」だった理由がもうひとつあります。それは、過剰な「男らしさ」と異性愛の規範をスポーツというものの中に読み取らずにはいられなかったからです。肉体的・精神的強さ、また時には「暴力性」と結びつけられるスポーツは極めて「男性的」なものです。しかも他の授業と違って男女別に実施されていた体育の授業は、いわば「小さな男社会」としての傾向がとても強いわけです。そしてそれは同時に、異性愛の規範が強固に働く領域でもあるわけです。そんな中に入っていっても、ついてなんていけません。もちろん、自分のセクシュアリティを絶対的に隠し、周りに合わせるメンタルがあれば別ですが…私にそれはありませんでした。


「男らしさ」と異性愛の規範は、部活や体育の授業に限ったことではなく、そもそも学校文化(そしてもちろん社会)に見られるものです。でも私は、国語や数学や理科よりも、そして学校というものそのものよりも、体育の授業が嫌いでした。勉強は一人でできます。孤立したってどうにかなります。授業も基本的には個人プレーのようなものです。いってしまえば、他の人と関わらず、「社会」から距離をおいて取り組めるものです。でも、スポーツは? 体育の授業は?


私は体育の授業は嫌いだったし部活も入れなかったけど、結局それは私が悪かったんじゃなくて、私に合う「靴」を選択させてくれなかった学校が悪かったんじゃないか、と思っています。さらに言えば、私に合う「靴」を提供することのできる学校を作ってこなかった社会が悪いんだ、と思っています。これは結局、LGBTの問題と、似てるんですね。


例えばLGBTが就職をする時、就職先がどれだけLGBTにとって過ごしやすい環境を整えているのかは気になる点です。人それぞれ、自分に適した職業は違います。だから、選択肢はたくさんあった方がいい。事実、部活を選択する時なんかより就職先の選択肢はずっとたくさんあるでしょう。でもその選択肢のほとんど全てが、「男らしさ」や「女らしさ」のジェンダー規範、異性愛の規範にどっぷりと浸かっていたら…。あるはずの選択肢もなくなってしまいます。なのでもしかしたら、LGBTである限り、「普通」の人よりも、今の社会ではやりたい仕事に就けないことはずっと多いのかもしれません。


私が20代前半くらいのとき、5歳くらい年上のとあるゲイと私の進路について話していた時、「自分のやりたい仕事なんて、できないよ」と言われたことを今でも強烈に覚えています。今でもたまに、頭の中にその瞬間がふと蘇ってくることがあるくらい、強烈に覚えています。彼がどういう意図でそれを言ったのかは分かりませんし、当時の私は「うるせぇし」と心の中で歯向かったわけですが、もしかしたら、ここまで私が言ってきたようなことを言っていたのかもしれません。


ちなみに今の私は、自分がやりたいと思った仕事に就いているつもりです。でもこれが本当に自分のやりたいことなのかは、わからなくなることがあります。私は大学院に進学し、大学で研究職に就くことを目指し、ひとまずその職に就いています。が、確かにそれはやりたいことではあったけれど、一般企業とは違って、社会の中でも比較的リベラルといえる大学という領域に、ただ「逃避」してきただけでもあったのではないかと、思わずにはいられません。もしも他にも選択肢があれば、他の選択肢を見つめる余裕があれば、そしてもっと社会全体がリベラルであれば、私の今の職業も全く違うものであったのかもしれません。


つまり何が言いたかったのかというと、スポーツや部活が「嫌い」だったこと、でもその「嫌い」は私個人の問題というよりは、社会の問題だったのでは、ということです。事実、今の私はスポーツがちょっと好きです。最近はできていませんでしたが、ここ半年くらい、友達とバドミントンをやり始めました。全然ガチではなく、体育館でゆる〜く打ち合いをするだけですが。やっと自分に合う「靴」が履けた気分です。


さて、今回も取りとめもなく思ったことを綴ってしまいました。基本的に真面目さことは苦手でおちゃらけた人間だと思っているのですが、文章となるとどうも硬くなってしまうんですよね…お許しを!


次の担当はしんちゃんです。しんちゃんには「小中高の生活の中で一番印象に残っている出来事・思い出」なんかについて聞いてみたいと思います? ちょっと答えにくかったら「スポーツ歴」で良いです!笑


それではまた次回!