仏紙シャルリー・エブドが襲撃された時は、ペンを掲げ。
同時多発テロが起きた時は、窓ガラスの弾痕に、バラを挿し。
燃えるノートルダム大聖堂を見ながら、アベマリアを歌う。
さまざまな出来事に遭遇するたびに、他のどの国ともちがう
パリ市民の反応に、いつも驚く
「Je suis Charlie(私はシャルリだ)」と名乗るプラカードも衝撃だった。
私たちは、の前に
私は――で表現がはじまっていること。
わたしはシャルリだ(これは、襲撃された風刺新聞社の名をわたしとすることによって、「わたしは表現の自由を支持する者だ」と表現した・伝えたもののはずだ)
起きたことに対して、表現することを恐れない、パリ市民。
運動(集団)より先に、
表現(個人)が、立ち上がっていること
敵(相手)を責めるより先に
私(個人)が、立ち上がっていること
「わたしはシャルリ」と宣言することも。ペンを手にもつことも。
銃撃戦でガラスにできた弾痕に、追悼の花を一輪かざることも。そして炎上する教会を見ながらお手上げのじょうたいのときは、アベマリアの歌を歌いはじめることも。
まるで、だれかその辺の、ひとりがふと、思いついたような
ささやかな、行為だ。誰かが、胸にバラをつける、それを見た者が、またバラを胸に――
そこに、忖度や強制はないはずだ。
それは、きっと、素敵だからだ。ひとから、ひとへの。
その、すてきの、ひろがり……
これが、文化だとおもう。
これこそが、文化だと、おもいしらされる。
いつも、どことも、ちがう反応をみせる、パリ。
善悪を超えた、運動を超えた、
それでも、たちあがらずには、いられない
個のすがたを、ありありと、見せつけられる。
文化を――そして
「生きさせろ」という
芸術のはじめにある――個の声を。
炎上するノートルダム大聖堂の前で
歌声をあげるパリ市民をみて、あらためて思った。
誰もが、表現できることを、思い出させてくれる。
さすがパリだ。
***
歌うパリにつづくものだと
おもって、がんばりたいと思います。ひきつづき、このプロジェクト
見守っていただけますように。感謝をこめて、宮尾節子。