今夜(3月14日)のクルミドコーヒー影山さんとの「就活、働くことの違和感」トークに向けての準備中です。
さっき上野駅の「book express」でふと目の前に飛び込んできた本。「仕事選びのアートとサイエンス」(山口周 光文社新書)
買っちゃいました。まだ冒頭しか読んでいないけど、就活に行く前に乗るべきヘリのラインナップに入れなきゃいけない本です。
冒頭からだいぶ攻めてきます。
~~~ここから引用
仕事選びを予定調和させることはできない。
自分をオープンに保ち、いろんなことを試し、しっくりくるものに落ち着くしかない。
「計画」に価値ははい
「風が吹く、生きようと試みなければならない。」
変転し続ける世の中で、私たちは世界に身を投げ出すようにして、まず「生きる」ことをを試みなければならない、そうしなければ何も始まらない、と言っているわけです。
スピノザは「本来の自分らしい自分であろうとする力」を「コナトゥス」と呼びました。
その人の本質は、その人の姿形や肩書きではなく、「コナトゥス」によって規定されると考えました。当然のことながら、コナトゥスは多様であり、個人によって異なることになります。
この世の中に存在しているあらゆるものは、それ自体として「良い」とか「悪い」とかいうことはなく、その人のコナトゥスとの組み合わせによって決まる、とスピノザは考えたわけです。
私たちは極めて変化の激しい時代に生きており、私たちを取り巻く事物と私たち個人の関係性は、常に新しいものに取って代わられていくことになります。
このような時代にあって、何が「良い」のか「悪い」のかを、世間一般の判断に基づいて同定することはできません。自分なりの「良い」「悪い」の評価軸をつくっていくこと。
自分の姿形や立場などの形相を「エイドス」と呼びます。私たちは往々にして自分の属性や立場といった「エイドス」に基づいて「私はこうするべきだ」「私はこうしなければならない」と
かんがえてしまいがちですが、このようなエイドスに基づいた自己認識は往々にして個人のコナトゥスを毀損し、その人がその人らしく生きる力を阻害する要因となっています。
私たちは自分のコナトゥスを高める事物を様々に試していくことが必要になります。
~~~ここまで引用
いやあ。そうそれ!
みたいな感激があります。
「にいがたイナカレッジ」で昨年末から連載した「挑戦するな実験しよう」では、まさにそのような「コナトゥス」を高めるためにはどうしたらいいのか?みたいな問いを持ちながら実験していくことについて書きました。
https://inacollege.jp/blog/2019/01/17/nishida4/
今日、この後にお話する「就活、働くことの違和感」についても、通じてくるものがあるなあと感じています。
「続・ゆっくり、いそげ」(影山知明・クルミド出版)
▼▼▼ここから「続・ゆっくり、いそげ」より
目的と目標(P50)
目標:計数管理⇒体温を測るようなもの。体温がその人のすべてを反映するわけではないように、計数がお店のすべてではない。
疑問詞でいえば、
目標:how much⇒取り組みの進捗を測る目安
目的:why⇒取り組みの存在理由や意義
「あなたの中に種のあることをやりなさい」(P58)
「have」「do」「be」という目的地(目標)設定。
「do」の目標設定だけだと、人生を不足と未達成の連続にしてしまう。
「人生はそんなロールプレイングゲームのようなものではない。」
「でない」が「である」の苗床になる。(P71)
僕はフラットじゃないコミュニケーションの場、その瞬間が何よりも嫌だったんですね。何も生まれないから。
「いってまいります」という言葉。(P75)
日本人はあたかも自らの自我を、外部から出発して構成するかのようです。
システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムをつくったのです。(村上春樹 雑文集「壁と卵」より)(P210)
1つ1つのシステムには、それが組み立てられた動機であり、目的があり、その動機や目的に沿うような人々のふるまいと相性がいい。いやむしろ、その動機や目的に沿ってふるまうよう、人々を方向付ける力をもっていると言った方がいいかもしれない。
システムをつくるには、それをつくるための原初的な「問い」がいる。現代はそれが「生産性の高い社会をつくるには」なのであり、その問いに答えようとしていると考えれば、今の経済も政治も教育も、ある意味よくできていると言える。(P228)
▲▲▲ここまで「続・ゆっくり、いそげ」より
まず目的と目標についてのここは鋭いなあと。目標だけだと、予測可能なのだけど、目的っていうのは、予測不可能だったり、変わり続けるもの、随時変更していかないといけないのではないか。
エンターテイメントの本質は「予測不可能性」にあるのだと僕は思うのだけど、僕の「コナトゥス」的には、おそらくは「予測不可能性」が高いものを楽しめるというか好奇心が旺盛だから、そういうことになるのかもしれないけど、
人によっては、自分が自分らしくあるためには、ある程度予測可能な未来設計と、目の前のことをコツコツやることが心地よいのだなあと。
人を一元化して語ることは不可能だなんて当たり前なんだけど、いわゆる成功者の実践だったり、多数派が納得していることだったりっていうのは、受け入れる人の「コナトゥス」に関係なく、受け入れざるを得ないような状況があるのだろう。
「本来の自分らしい自分であろうとする力」に耳を傾けること。本人だけではなく、一緒に場をつくっていく人たちがコナトゥスを意識すること。
だから、ひとりひとりに耳を傾けて、be動詞的なあり方のイメージを共有しながら前に進んでいけるような組織が必要なのだろうと思う。
「就活」という巨大なシステム。村上春樹さんの引用を借りれば、システムに我々を利用させてはならない、と。
それを「フレームワーク」的な演劇だと割り切ってしまえば、うまいこと突破できるのかもしれない。
しかし、そのフレームワークを、ずっとずっと続けていくのか?そもそもそのようなフレームワーク的な仕事は続いていくのか?
いや、何よりも、そのシステムの中で、いま、自分自身はハッピーなのか?そんな問いを問いかけないといけないのだと思う。
システムを新しく作っていく、そんな原初的な問いを始めてみよう。
「就活」そのものが交換可能ではないのか?