イナカレッジ・ラボ@東京・湯島でした。
午前中は「beの肩書き」ワークショップを40代のおじさん3人でやるという・・・みんな人生、迷ってます。笑
人生を物語として見たときに、どう見えるか?っていう鈴木さんが放った一言が印象的でした。
僕の中で出てきたキーワード。
本、問い、場、フラット、創造、コミュニケーション・デザイン、コミュニケーション・ツール、お客は誰か?、脱・自分、脱・二元論、いいかげん、目的に向かわない、機会提供、溶け出す、とかとか。
あとは「場づくり」の価値をどのように伝えるか?っていう話。これは面白かった。
参加者の鈴木さんは「鈴木さんって何をしたいのか、よくわからないですよね」ってよく言われるらしい。それって場づくりにとっては、むしろプラスなんじゃないか、と。
場の価値や目的を言語化できる、っていう場と言語化できない場っていうのは、どちらが価値があるのか?っていうジレンマ。
というか、価値があるのは言語化できない「場」なのではないか。
午後の部は、イナカレッジの井上有紀さんと「挑戦するな実験しよう」をテーマに参加者とフリートークをしました。
~~~
「やってみる」こと、「ふりかえる」こと。
「ふりかえる」ときに、
「目的」「目標」に沿って考えたことをふりかえるのか?
「顧客」「価値」について感じたことをふりかえるのか?
「予想できなかったよかったこと」は何か?
「適応する」ことは個体にとっては「本能」であって、「価値」そのものではない。
その個体が属する集団にとっては価値である可能性が高いけど。
予測不可能性というエンターテイメント性と予測可能性という安全性・安心感
「何に囲まれるか?」という判断基準。
「感性」を磨いていくこと。「問い」を共有すること。
~~~
とまあ、こういう感じ。
この4日間の「就活の違和感」ウィークで思ったこと。
「二元論」でわかりやすくすること、とか「自分」(っていう概念も二元論だと思うけど)っていう考え方が苦しさの原因なのではないかと。
3月14日(木)の「続・ゆっくり、いそげ」の夜でも、本の中でも出てくる「おでん」理論。
それぞれが、「美味しいおでん」に向かって、ある者(たとえば昆布)は多くダシを出して、ある者(たとえば大根)は多くダシをもらって、全体としてひとつのおでんができている。ジャガイモはいつの間にか場(つゆ)に溶けている。
「よい場」っていうのは「おでん」のような場なのではないでしょうか。
個人を個人として考えるのではなく、場の構成要素として、つまりおでんの具のひとつとして、とらえてみること。
2003年に発売された「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)は200万部を売り、子どもたちに呪いをかけました。「プロフェッショナルになれ」という呪い。
一方で同じ年にリリースされた「世界にひとつだけの花」(SMAP)は、200万枚を売り、子どもたちに「ナンバーワンにならなくてもいい元々オンリーワンなのだから」と語りました。
それは子どもたちを癒すのではなく、よりいっそう、「何者かにならなければならない」という呪いをかけたのではないかと思うのです。
でも。そもそも人はONEではないのではないか。おでんの具のように、生きていけばいいのではないか。
場(つゆ)の中のひとつ(ひとり)として、場とやり取りしながら、出番が来るまで、役割を全うすることなのではないか。
自分からリーダーシップをとって動かなくても、場の構成要素として、そこに存在することで、おでんの足しになればいいのではないのか。
いま、この瞬間、変化し続ける唯一無二の「オンリーおでん」の中の具のひとつを演じる。そういうことでいいのではないか。
就活の面接は「おでん」じゃないものね。そこからいいダシ出てないから。
「今日もいいダシが出て、おいしいおでんになりました」
そんなおでんをつくるような就活をしたいなあと思いました。
そんな「おでんの歌」つくってくれませんか?