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被爆を生き抜いた「明子さんのピアノ」を次世代に響かせたい!

原爆投下76年を迎え、広島・長崎の被爆者の平均年齢は84歳に迫りました。被爆者が語れなくなる日が近づいている今、「明子さんのピアノ」という被爆を生き抜いた楽器とともに、「核なき世界」の大切さを次世代に伝えていきます。

現在の支援総額

643,835

107%

目標金額は600,000円

支援者数

80

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/07/30に募集を開始し、 80人の支援により 643,835円の資金を集め、 2021/08/31に募集を終了しました

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現在の支援総額

643,835

107%達成

終了

目標金額600,000

支援者数80

このプロジェクトは、2021/07/30に募集を開始し、 80人の支援により 643,835円の資金を集め、 2021/08/31に募集を終了しました

原爆投下76年を迎え、広島・長崎の被爆者の平均年齢は84歳に迫りました。被爆者が語れなくなる日が近づいている今、「明子さんのピアノ」という被爆を生き抜いた楽器とともに、「核なき世界」の大切さを次世代に伝えていきます。

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「明子さんのピアノ」の持ち主である河本明子さんは、1926年、ロサンゼルスで生まれました。お父さまの源吉さんは、1910年に広島から渡米し、サクラメントなどで農業に勤しんだあと、保険業に従事。1922年にシヅ子さんと結婚しました。4年間待って待望の女の子、明子さんが誕生。

「長イ間楽シミニ待ッタダケノコトハアル。其子ガ聡明ナル様祈ル。 」(源吉さんの日記)

源吉さんは、ピアノを購入しました。1926年製のボールドウィン・ピアノで、明子さんは成長するにつれこの音色に魅せられ、毎日練習に励んだと聞きます。 写真は、明子さんとピアノが一緒に写っている唯一のものだそうです。華やかなクリスマス飾りが、アメリカの雰囲気を醸し出していますね。


私、松村真澄は、明子さんが生まれて50年後の1976年、群馬県前橋市で生まれました。父は町のお肉屋さん。待望の女の子…、だったとは思いますが、肉の大売り出しで大変忙しく、生まれて約1週間、父は私に会いに来ませんでした。私は今も、それを覚えています(と言って、時折父をからかいます)。肉屋の娘だけに、生まれた時から肉付き満点ですね。

後ろにあるのは、私がのちに習うことになるエレクトーン。その角に頭をぶつけて、おでこがぱっくり開き、いまもその縫いあとが残っています。この楽器は、引っ越し時に出してしまい、もう触ることも弾くこともありませんが、当時その音色にノッて丸い肉体を揺らしていた、と母がよく話します。


あなたの誕生はどんなでしたか?
周りにはどなたがいましたか?
どんな子だった、と聞きますか?

明子さんのご両親が書き残したように、赤ちゃんの誕生は、大きな幸せと希望、楽しみをもたらしてくれるものだと改めて感じます。

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