こんにちは!
デフフットサル男子日本代表No12 ゴレイロ
「小さな巨人」(チームメイトからは顔面マン何とか呼ばれていますが(笑))
こと折橋正紀と申します。
この度は、閲覧いただきありがとうございます。
本当にたくさんの方々に拡散され、SNS、フットサル界のパワーに
びっくりしています。
そして、ご支援いただいた方、本当にありがとうございます!
まだまだ皆さんのお力が必要なので、ご協力よろしくお願いいたします。
ここ最近、ありがたいことに様々なところから取材の機会を
頂いているのですが、「折原」と間違われて呼ばれることが増えました。
折原ではなく、折橋です。覚えてください。
もう一度言います、折橋です。
・・・すみません、前置きが長くなりました(笑)
さて、タイトルについて長くなりますが身の上話を載せていきたいと思います。
拙い文章ですが、最後までお読みいただけるとありがたいです。
[東海林キャプテンとの出会い]
彼とは、もう10年の付き合いになります。
男子代表の選手たちとは、付き合いが長い選手が多いですが、
一番濃い付き合いをしてきたのは東海林だと思っています。
東海林は、4つ下なのですが僕と同じ北海道札幌市出身ということで
札幌でのエンジョイフットサルで出会いました。
約10年前、筑波技術大学に通っていた僕は帰省するたびに高校時代の
友人に誘われてエンジョイフットサルに参加していたのですが、
その友人から「ドリブルがめちゃくちゃ上手いデフがいる!」との
ことでその場に連れてきてくれました。
当時、高校生に入ったばかりだった彼の印象は、体格がひょろひょろしていて
目つきもすごく悪いやつだなというくらいでした。
そしてドリブルもニョロニョロしてる、イメージでいうと蛇ですね(笑)
そんな彼でしたが、深い付き合いが始まったのは出会って1年後に行われた
全日本ろう者サッカー選手権の時です。
※全日本ろう者サッカー選手権
北海道、東日本、西日本、九州、4つのブロックに分かれた選抜チームで
トーナメント戦を行う年に1度の大会
開催地は、各ブロック持ち回り
当時、サッカーをやっていた僕と東海林は北海道選抜として出場し、
ホテルも相部屋でした。
翌日試合があるにも関わらず夜遅くまで話に花が咲いたことで一気に
関係が縮まりました。(コンディショニングの観点から見ればNGですね)
そんなキッカケから、帰省のたびにご飯行ったり、東海林が就活で関東に
きた時は1週間くらい泊めたり、引越しの手伝いもしたり、練習のアッシーに使い合う
などといった付き合いが続いています。
そんな彼ですが、今や頼れる代表キャプテン。
キャプテンになってから変わっていく姿を見て自分も学ばなければいけない部分も
多いですし、もっと変わっていきたいと思っています。
[ゴレイロとしての歩み]
今、ゴレイロを務めていますが、元々サッカーではキーパーをやっていませんでした。
サッカーのキーパーは全くできません。
そんな僕がなぜ、ゴレイロになったのか。
それは、2011年に出場したW杯がキッカケです。
当時、日本が初出場ということもあり、メンバーも遠征費が払えれば参加できるといったメンバーでした。
出場メンバーにゴレイロが一人しかいなく、フィールドプレーヤーの中から
サブのゴレイロを兼任してもらおうということになりました。
そこで、一人一人テストをした結果、僕が掛け持ちすることになりました。
(僕のどこに適性を見出したのかわかりませんが(笑))
そんな流れで、W杯も試合の半分はゴレイロとして出場しました。
翌年に行われた、アジア太平洋ろう者大会でもゴレイロが僕しかいなかった
ということもありゴレイロを務めてきたのですが、
「試合の勝敗の7割はゴレイロが占める」ということも知らなかった
素人レベルでしたのでプレー、結果は散々でした。
そんな流れでゴレイロを始めたのですが、今に至るまでにかなり
紆余曲折しています。
2013年頃だったと思いますが、ご縁があり、関東リーグに所属している
ブラックショーツというチームのゴレイロ冨沢さんから声をかけていただきブラックショーツサテライトに入れていただける事になりました。
これだけでもすごくありがたい事なのですが、当時の自分にはレベルが
高すぎて1年ほどでバルドラール浦安デフィオに移籍するタイミングで
1度ゴレイロを辞めてしまいました。
今なら、学ぶのに最高の場なのになんてもったいない事をしたんだろうと
思うのですが、当時はついていけない、自分ができないという現状から逃げ出したかったんだと思います。
今では、時々、冨沢さんのゴレイロ練習会に参加させてもらったり
ありがたいことに何かと気にかけていただいています。
以前の川元監督のブログにデフのことについて書かれていましたが、
まさにその通りで自分もその一人でした。
僕はずっと聾学校で育ってきたのですが、1学年5〜10人程度
(高校は道内で1つなので1学年20〜30人)の環境で競争もそんなになく
コミュニケーションなど不便に感じることがあまりありませんでした。
ですので自分にとって、本当の意味での競争や挫折といった
ものを知らなく、井の中の蛙といった感じでした。
聾学校で育つのが良い悪いではなく、育ちの背景がそうだったというだけで
自分がそういった厳しい経験をする機会が少なかっただけのことです。
そんなわけから、何か辛いことや厳しいことに直面すると、何かのせいにしたり
うまく理由を作って逃げるような自分だったと思います。
なんやかんやでゴレイロ、代表から離れていた僕でしたが、2015年W杯の試合をライブ中継で見たときに心のどこかでモヤモヤを感じている自分がいました。
そして今年11月のW杯に向けた新チームが発足するタイミングで東海林から「もう一度一緒に代表やらないか」とお誘いを受けたこともありもう一度ゴレイロとして目指すことに決めました。
アワービジョンの発足もあり、基準が明確になり選手のフィジカルベースが上がっていく中で、自分はどうだったかというと、、ひどいものでした。
当時、プレーの波が激しく、失点すると凹むひ弱なメンタルだっただけでなくいじられるのも好まない自分でした。
たくさん監督を含めみんなを悩ませたと思います(笑)
他にまともなゴレイロはいないのか?こんなシュートも止めれないのか、と思ったことでしょう(笑)
代表に誘うんじゃなかったと東海林も思ったことあるんじゃないかな。分かりませんが(笑)
世界一を達成するには、選手としてのフィジカル、スキルはもちろんですが「人」としても成長していかないと達成できません。
また、今まで専門的にゴレイロの指導を受ける機会が少なく、試行錯誤でやってきた自分にとってターニングポイントが2つあります。
1つ目が前代表ゴレイロコーチの濱さん、メンタルコーチのジーニョさんとの出会い。
ゴレイロスキルの指導はもちろん、WhyとPDCAの考え方を植え付けてくれました。
失点や上手くいかなかった部分に対して、何故そうなったのか原因を明確にし、どうすれば良かったのかを考え、試していくといった事を繰り返していく事を学びました。
メンタル面についても、心構えだったり失点後のメンタルの保ち方などを指導してくださいました。
代表合宿などでは成果はあまり出せませんでしたが、それを習慣づけていくことで少しずつ成長できたのではと思います。
2つ目が昨年12月に行ったスペイン遠征。
これが自分にとって本当に大きかったです。
当初、この計画が出たとき、金銭面からすぐ辞退が頭によぎりました。
また、困難なことに対して逃げる選択をしかけたのですが、チームメイトの
鞭撻もあり何とか工面して参加しました。
本当に行って良かったと思います。
スペインでは、本場のフットサル、ゴレイロの指導、そして日本代表としての行動、試合や普段の行動に対するメンタル・心構えというものを学びました。
この経験をさせてもらえたことで、一回り二回り成長できたと思っています。
そして、迎えた2月のアジア予選。
アジア予選では、自分の持てる力を全て出せたと感じています。
余談ですが、毎試合顔面ブロックが出る、顔にアザ作る、元々顔が大きいことから
「顔面マン」としていじられキャラが定着してしまいました(笑)
今では「その顔で世界を取るから見とけ」と開き直るまでになっています(笑)
このシーンを振り返って、誰だったか忘れましたが「タイからあのゴレイロ頭おかしいって思われてるぞ」なんてこと言われました(笑)
僕にとっては褒め言葉です(笑)
結果はアジア準優勝でしたが、イランは2回やってどちらも0−4で敗戦。
世界一になるためにはその4点の差を埋めなければなりません。
自分がその4点を0に抑えることができれば、世界一の可能性がグッと高まります。
その為にも、新しく就任された、世界を知る定永ゴレイロコーチの元でたくさん学んでその差を埋めていきたいと思っています。
体全てを使って、顔が潰れてどんな顔になろうがピンチを確実に止め、
世界一に近づけるよう努力していきたいと思います。
今までの出会い、関わってくれた方々、支えてくださった全ての方への感謝を胸に
外見ではなく本当の「小さな巨人」になれるように。
その為にも、皆さんのお力を貸してください!
一緒に世界一の景色を見たいと思っていますので、引き続き拡散、ご支援のほどよろしくお願いいたします!
長々となってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
最後の最後に、みなさん僕がなぜ世界一を目指すか?
わかりますか?
顔がデカイからや!
お後がよろしいようで!笑
折橋正紀