毎日デフフットサル日本代表の応援ありがとうございます。
ますます応援メンバーが増え嬉しく思います。
女子代表#14 フィジカルモンスター、中井 香那です。
今回は私が小さい頃、周りが健常者の中でどのように過ごしてきたかを、お話しさせて頂きますね。
みんながそれぞれ、書き、読む人は、またかって思うかもしれませんが(笑)
一人一人、育ってきた環境は違い、頑張ってきたことが伝わるといいです。
そして、このような機会をいただき、自分の人生を振り返り、また新たな頑張る力になっていること、周りの人に支えられ生きてきたと、さらに感謝できました。
ありがとうございます。
私は生まれつき先天性の難聴です。
両親は健聴です。
私は、テレビに合わせて体操したり、音が鳴ると振り向いていたり、人の動きにも反応あり、聴こえていないとは、周囲も気づかず、一歳半になっても、言葉が出ないことで、検査をすることになったそうです。
聴こえないことがわかり、母は、聴こえないことのショックより、一刻も早く、この子をどうやって育てたらいいのか、何をしたらいいのか、迷う間もなく、病院から、すぐその足でろう学校に行ったそうです。
自宅から一駅先に、ろう学校があったのです。
母と通いました。
2つ下の弟も聴覚障害があることがわかり、三人で通いました。
弟は、赤ちゃんの時でした。
私は、同じ聴覚障害の友達と遊ぶのは楽しく、ろう学校に行くのを楽しみにしていましたが、机に向かい集中する、発音練習が大嫌いでいつも暴れていました(笑)
音を聞いて、声を出すのではなく、舌の動き、息の出し方で、声を出します。
発音練習はミルクせんべいをちぎって舌の上に置いたり、風車をふぅ~と吹いたり、先生の喉を押さえ振動で覚えたり、発音だけではなく、聞き取りトレーニングもしました。
最後はお菓子がもらえご機嫌〜♪(笑)
サ行は苦手で、聞き分けができません。何度もやり直しさせられたことを覚えています。
手話も身振りでした。指文字は覚えていなかったような~
とりあえず、なんでも相手に伝えることに一緒懸命でした。
絵日記を使い、物には名前や、意味があり絵を見て覚えました。
毎日お母さんと向き合い「今日は何をしたの?」「どうだったの?」等物と名前を覚えての繰り返しの毎日でした。
絵のへたなお母さんは、なかなか大変だったようです。
私が背を向けてもそれでも母は、しっかり前を向いてくれていました。厳しかったな~(笑)
初めて話した言葉は、、、
「あんぱーい(乾杯)」だったそうです。
父も母も泣いたんですって。
本当に私にとっては、地獄のような発音練習でしたが、聴力は100dBで、サ行は苦手ですが、今はこうやって「上手に話せてる。」「本当にろう?」「どうやって聞き取りしているの?」と言われる時があります。
今では、役に立ち両親やろう学校の先生にはほんとうに感謝をしています。
ありがとうございます。
あまり、直接言うことがないから、ほんと、いい機会をいただきました(笑)
また両親泣くんちゃう(笑)
地域の幼稚園にも週一回通いました。
言葉は通じなくても、体を使って遊ぶことで、しっかり楽しんでいました。
(小学校)
ろう学校は行かず地域の小学校に通っていました。幼稚園に通っていた時のお友達がいたからです。
難聴学級もなく普通のクラスで勉強をしていました。
弟が一年生になった時、私の1年2年の担任の先生が担当となり、難聴学級ができました。
小学3年から苦手な教科だけ難聴学級で1対1で授
業を受けました。
席はもちろん1番か2番目の方に座っていました。
またFM補聴器を購入し、授業の時に先生にマイクをつけてもらい、直接音が入るようにしましたが、マイクを付けるだけで友達の目線をすごく感じ、マイクを忘れたふりをしたり、充電もしないで持ってきたことで先生や母に怒られたことを思い出しました。
先生が少しずつ手話や指文字を勉強をしてくれ、私も一緒に覚えました。
ほぼ、指文字でコミュニケーションを取っていました。お友達も興味を持ってくれ、覚えてくれるようになりました。
小さい時からスポーツが好きでよく身体を動かしていました。
勉強面では、音読っていうのかな?
私の地域では本読みと言いましたが、、、特に本読みが大嫌いでよく母と喧嘩していました。1人で読んだり、読んだふりで、読んだときはサインが必要で自分でサイン押してごまかしたりしていました。教科書を破った事もあったな~(笑)
それでも母は発音を大事にして違う発音になったら「ちがう。」「もう一回」ってなかなか終わらない。
父も聞いてくれました。
小学校では、幼稚園の友達だけじゃなく、全く聴覚障害のことを知らない子達もいて「発音おかしい。」「へたくそ。」「耳になんか付けてる。」(その時の補聴器は今と違ってダサかった。今は色つきでイヤモールド、おしゃれで進化してる。)と言われたこともあります。
先生にいつ当てられるか不安になり、次に私の番が来ると、「ここだ。」と言って練習をしてたの覚えています。
また音と訓の情報がなく、間違いが多く、隣のお友達に確認をして書いていました。
小学校時代は、
子供自身も、自分のことで精一杯で人のこと障害についてあまり、関心もなく、理解も乏しく、辛いこともありましたが、得意な体育、スポーツは誰にも負けませんでした。
また、テレビ字幕が前はなかったけど、今は字幕は当たり前に付いてくれるようになった。
それと子供会のポートボール(ミニバスケのような)のキャプテンもやりましたよ。
(中学校)
地域の中学校に通いたかったのですが、隣の校区の上野芝中学校に難聴学級があり、その当時は越境も認められており、そちらに通うことになりました。
また1からお友達を作らないといけない。という環境に不安になり、入学式の日が迫ってくると大暴れ。(なんでそんなに暴れるんだろう?)
お母さんにたくさんひどいことも言ったりした。「なんで別の中学校に入らないといけないの?」「私が聴こえないから?」と。
入学式は幼馴染のお友達もいた。ろう学校の先輩もいた。
地域離れた中学校は電車と最寄り駅から20分程…。
中学は、全く知らない環境で友達は少しずつ増えていきました。どうやってお友達作れたのか覚えていません。
自然とできたでしょうか(笑)
部活はバスケに入りたかったのですが、中学はなく、その時はオリンピックが盛り上がり谷ちゃんが金メダルを取り柔道がブームだったこと柔道に入ろうか迷っていましたが、担任の先生と相談し、ハンドボールに入りました。
中学は勉強も難しくなり、特に音楽の授業が嫌だったことすごく覚えています。
笛のテストもあり、上手に吹けなく、周りから笑われたこともあり、そこからずっと笛を忘れたふりをしていました。音楽の先生が気付いたのか呼び出しされ、理由を話をしました。
放課後に1対1で教えてもらいながらテストを受けました。音楽発表会の時は歌は口パク…(笑)
英語はリスニングが全く分からないので、テストは別室で受けていました。
勉強は嫌いでしたが、
私はここで、私の運命を変えるハンドボールと出会うのです。
それは、また次回。
今思えば、辛いこともいっぱいあったけれど、体を動かすことで、元気が出ていつも、誰かがそばにいて、楽しい時間だったかな〜。
ほんと、長文になりましたが、最後まで読んで頂きありがとうございます。
いつも応援ありがとうございます。
#14 中井香那
今日も明日も頑張ります。
皆さんにとっても明日がいい日になりますように。