2012/02/21 02:25
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支援して下さっている皆さんに、これから支援くださる皆さんに僕がなぜこのプロジェクトを立ち上げたいと思ったのか、これから実行をしていく上でその想いを共有させて頂ければと思い、そのきっかけや経緯について書かせて頂こうと思います。
大好きなコトにホンキで挑戦する人が応援され、励まされ、走りぬいた後に後ろを振り返ってみたら、いつの間にか大切な仲間と笑顔で溢れている、そんな社会になってほしい。
こんな想いをこめてこのプロジェクトに携わっています。
これだけ書くと意味がわからない人もいるかもしれません。東北との繋がりも見えてこないかもしれません。
このプロジェクトを深く知りたいと思ってくださる方に向けて、その経緯や僕の想いについて書きます。僕の生い立ちにも入り込むことなので少し長くなりますが、興味を持ってくださった方はどうかお付き合い下さい。
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【NBAへのあこがれと中学・高校時代】
僕はNBAを初めてじっくり見始めた中学時代、その興奮からずっとNBAに憧れ、いつかNBA選手になりたいと思っていました。
自分の選手としての限界や現実が見えてくるなかで、NBAを生で見たい、いつかNBAで働きたい、そして高校の頃でしょうか、いつかこう思うようになりました。
「NBAと日本のバスケットの架け橋になりたい」
高校時代の最後は利き腕の左肩を大怪我し、ベンチで右手でスコアブックをつける、そんな引退の仕方をした僕は、ずっと選手としての自分に何かふっきれないまま、大学に進学しました。
【大切なバスケの仲間との出会い、そして夢のNBAインターンへ】
大学では体育会に入るもののすぐに退部、その後はバスケサークルに入り2年生のときにキャプテンを務めることになります。全国大会とは全く無縁の僕でしたが、1つ下の後輩達は全国ベスト8のスタメンもいるような強者ぞろい。でも彼らは本当にバスケットが大好きで、上手いか下手かで人を見るのではなく、コートにいる瞬間にホンキでバスケットをプレーするかどうかを大切にすることのできる仲間でした。コートの上では手を抜かない彼らに、何度もコテンパンにされましたし、またそれが僕の喜びでもありました。
高校のときに描いた夢、その夢を追いに大学時代に1年間アメリカのシアトルに留学しました。その留学プログラムでは約半年間の授業の後に、インターンシップにチャレンジをします。
僕の中で選択肢は一つでした。NBAのチーム、シアトルスーパーソニックスのインターン。
このチャレンジ以外の選択肢は僕にはありえませんでした。
今回も日本に来ることとなる当時の上司Wyjuanaと面接をし、その数日後NBAで働きたいという僕の夢は現実になることとなります。
「あなたをインターンとして迎え入れられることを幸せに思います」
そのメールの文面を見たとき、僕は今まで感じたことも無い達成感に包まれましたが、その後にすぐに寂しさが全身を襲ったのを覚えています。
バスケサークルの仲間達がそこにはいないこと。この喜びをまっさきに伝えたい大切な人がすぐ隣にいないこと。
そのとき僕は初めて気が付いたのです。夢を達成すること、それ自体が僕にとって大事だったのではなく、僕が夢を達成したときに自分のことのように喜んでくれる仲間がいて、その温かさを感じられること、それが僕にとって本当に大事なことだったということに。
【新しい夢・消え去った夢】
僕はそれから帰国までの期間、毎日ジムに通い、トレーニングを始めます。大きな大きな夢ができたからです。
帰国してから卒業まで残された1年間、大切な仲間と一緒にホンキのバスケを全力でやりぬき、「バスケ選手としての自分の一生を納得して終える」という夢です。結果がどうあれ、この最高の仲間達と一緒なら、大学を最後にホンキのバスケに胸を張ってサヨナラできると思っていました。
3月に帰国、4月末には就職活動も終わり、いよいよこの夢にむかって全力で歩む環境が整って心が弾んでいた5月の始まりのことです。
新入生歓迎の練習で新入生と交差して左膝の前十時靭帯を断裂し、僕のホンキのバスケは思わぬ形で終止符を打つことになりました。
医師から1年間はプレーは不可能だと言われたとき、僕はその言葉を受け入れることができませんでした。ただただ涙を流すばかりで、苦しくて、辛くて、仲間達のどんな声も情けをかけられているように聞こえてしまい、心が安らぐことはありませんでした。
誰が悪いでもないのに交差した新入生を恨んだり、元キャプテンにも関わらずそんなことを思ってしまう自分を責めたり、気を遣わせていることがたまらなく辛くなったり。ぶつけようの無い想いに心が行く先を無くしていました。そして自分の暗い雰囲気でみんなまで暗くなってしまっているような気がして・・・。僕はそのとき本気で思っていました。
「今の自分には生きている意味なんかないんじゃないか」
そんな自分をサークルの仲間達は卒業後もずっと支えてくれ、僕の愚痴をただずっと聞いてくれていました。情けをかけられるのは嫌だ、と優しさを歪んで捉えていた僕の心も少しずつ変わり始め、彼らが喜んでくれるように僕も前に踏み出したいという気持ちに変わっていきました。暗いトンネルをぬけるまで相当の時間がかかりましたが、バスケットボールの存在を越えて大切なもの、愛するものがたくさん自分の周りにあると気が付いたとき、そこに小さな光が見えたのです。
【夢を追う中で得た大切なもの】
夢が叶うこともあれば、夢に破れることもある。
たいした夢では無いかもしれませんが、叶ったことも破れたことも両方を経験する中で僕が気が付くことができたのは、どっちの結果になったとしてもホンキで夢を追う過程でめぐり合えた大切な仲間の存在こそが、自分の生きる意味になり得るということです。
大好きな何かに巡り合い夢を追う決意をするその時に、全力で夢を追うことの環境が整っていること、夢を追うことを心の底から応援してくれる人がいること。人が人らしく生きるために必要なその風土が、日本にはもっともっとあってもいいと思うのです。
バスケットボールという夢にめぐり合い、けれども苦しんでいる人と今も数多く出会います。そのたびに、僕は医師から夢の終わりを告げられたあのときを思い出し、胸が締め付けられるような気持ちになります。バスケットに出会ったことで苦しい思いをしている人を見るたびに僕はあのやり場のない苦しみを思い出すのだと思います。
大好きなコトにホンキで挑戦する人が応援され、励まされ、走りぬいた後に後ろを振り返ってみたら、いつの間にか大切な仲間と笑顔で溢れている、そんな社会。
それを実現するのが今の僕の願いであり、そして夢です。
【大震災とバスケットボール、そして新たな出会い】
大震災の後、僕は自分が愛してきたバスケットを通じて何か出来ないかずっと考えていました。そんなとき、元WJBLの選手の神事さんが声をかけて下さり、東北を訪問することとなったのです。
プロジェクト概要にも書いたとおり、震災は多くの体育館という空間を奪い、バスケットボールをプレーする環境を東北から奪い去りました。僕の怪我なんか比較にならないほど、子供達は苦しかったはずです。それにも関わらず、数時間の間バスケットと共にあった子供たちの眩しいくらいの笑顔、また来てねと言ってくれた無邪気な子供たちの呼び声。心の底からありがとうと言ってくださった顧問の先生の感謝の言葉。
あの子たち、子供たちを想う先生、そして、あの喜びにもう一度会いに行けたら。
その感動を色々な人と共有することで、少しでも東北の子供たちがバスケットを楽しむ環境が良くなることに繋がったら。
僕の夢を叶えてくれたWyjuanaとFredrickに、東北を支えたいというホンキの気持を共有できる大切な仲間達に、あの時東北に確かにあったその笑顔を見せられたら。
そんな想いをこめて、僕はまた、東北に行きます。
【寄付をしてくださった皆様へ】
寄付を頂いた方の想いはそれぞれに違う想いかもしれません。けれども、僕の想いと皆さんの想いが少しでも重なることがあることを心の底から願っていますし、寄付をしてくださった方の想いが少しでも多く叶うよう、僕はプロジェクトをひたむきに推進していきたいと考えております。どうか引き続き、皆さんの温かいご声援を宜しくお願い致します。
代表 田中 裕之(ヒロ)