震災ということの語りづらさ
僕らが震災をテーマにしようとした今年5月、まだその当時は実際に福島に訪れる前でした。社会との関わりの中で“アート”というモノをどの様にして役立てていくか、自分以外の人の人生をどのように豊かにしえるのか、を考えようとしていた僕らは現代にまんえんする問題をまず挙げていきました。移民問題、北朝鮮問題、少子化問題、ジェンダー、復興問題、オリンピック問題、等々……。どの問題も僕らにとって当事者性(自分の事として捉えられるか)が低く、作品をつくることを考えたときに取っ掛かりが見つけにくく感じていました。ただ唯一復興問題だけは、他の諸問題よりも言葉にしづらさにおいて僕らにとって身近だったのです。
震災当時、埼玉と福岡で暮らしていた僕らは程度の差はあれど、震災というモノをどこか遠くの出来事に感じる部分がありました。学生だったこともあり目前に迫っていた大学受験にすぐに意識が向いていきました。そして大学に進学し福島や宮城出身の人から当時の話を聞くとき、話す裏にあるだろう壮絶な体験を想像してしまい、どう言葉をかけたらいいのかわかりませんでした。気軽に聞くことも、聞いたことに返す言葉も、必要以上に不用意な発言で傷つけないようにと考えてしまい、結局震災について曖昧なイメージを膨らませる事にしかなっていなかったような気がします。だからこそ僕らは震災が起こってから、復興というものがどこまで進み、どんな現状なのかを知りたいと思いました。そして直接被災してはいない人々がどう被災地や被災者と向き合い、関係性を築いていくべきなのか考えることができたらいいのではないかと思いました。
現地取材での衝撃
そして6月に福島に取材に行こうと決めて、情報収集を開始しました。しかし、まず震災や復興の情報そのものにアクセスすることの難しさに直面したのです。復興庁や市役所の出す情報はほとんどが情報をまとめたPDFの羅列があるばかりで、情報を求める人が理解しやすかったり、手に入れやすかったりするようには整理されていませんでした。情報も数年前のままであったり、最新の現状を知らせる資料を見つけ出すのにも苦労しました。その結果、国道6号線とそれ以外の道はどこまで通行可なのかすら判然としませんでした。実際に被災地を訪れた人を調べても、ほとんど福島の富岡⇔浪江間の代行バスから見える風景と放射線量を示す機械の画像ばかりで有益な情報はほとんどありませんでした。何よりもそういった旅行記やルポからはそこに住む人々の事はほとんど触れられていません。
正直もう少し具体的に、福島の現状を知ることができるだろうと考えていた僕らは、やはり現地に行って自分の目で確かめるしかないという結論に至りました。そうして6月僕らが訪れた時、福島にあった現状はそれまでの復興のイメージをすっかり塗り替えてしまうようなものでした。
僕らは現地は8年という月日が経って、ある程度復興が進んでいるだろうと思っていました。そして、当然人々の生活が以前と同じまでとはいかぬとも、実際に戻ってきている場所もありました。ソーラーパネルや巨大な風車が立ち並んでいる場所もありました。しかし沿岸部の周辺には不自然なまでに広い平野が広がっており、話を聞くと全て家が立ち並んでいた場所だったり、海は僕らのイメージする砂浜ではなく真っ白い防波堤が万里の長城の如く建設されていたのでした。そしてその手前には区画整理の柵が張り巡らされ、防波林を作るため木が植えられていました。そのあまりにも現実だけれど、どこか現実味がない風景に圧倒されました。なにより空はあまりに青く、それを反射したかのような海はあまりにも綺麗で、それがより非現実な印象を強くしました。沿岸部から歩いて駅のほうに向かうと途中には、塀だけが残された野原や、家の土台だけが残されている空き地が点在していました。
そういった震災の爪痕を感じる場所はいくつもありましたが、一番如実に残っているのは双葉町・大熊町の街並みでした。そこは本当に映画のセットのように荒廃したゴーストタウンで、震災が起こったその日のまま時が止まったようでした。放射能という目には見えない脅威によってもはや戻ることができない場所がある。そこに住んでいた方の心は計り知れないと思わざるを得ませんでした。ここでは復興というモノはほとんど進められていませんでした。というよりも進めることができないまま8年もの月日が経っているのです。除染された土は黒いフレコンバックに詰められずっと8年間、白い鉄板で覆った空き地に整然と並べられ続けています。それが少し車で移動すればどこにでもあるのです。
地元の方は「ソーラーパネルも風車も、道路とかたくさん工事してるけど全部勝手にやってるんだからね。知らぬ間に増えていくんだから。きれいに建ててさ。それで復興したようにあなた方には映るでしょ? でも汚染土や汚染水の問題は全然進んでない。この周りの森だって池だって手付かずなんだから、未だにそのまんまなんだよ」と語っていらして、復興が少しでも進んではいるんだなと思っていた僕らにとって、目から鱗が落ちるお話でした。
この国全体の問題として
実際に現地を見て、お話を聞いて思ったのは、この復興という問題は福島という土地だけの問題ではなく、日本に生きる全員が付き合い、考えなければならない問題だということでした。福島に住む人だけが考えるのでも、語るのでもなく、たくさんの人の考えと意見が、認知が必要だと感じました。
僕らは自分たちの非当事者性による語れなさを問題にしようとしていましたが、それによる弊害は僕たちの予想を超えて大きな問題だったと思いました。どの人も多かれ少なかれ抱えているように思う震災を語ることへのうしろめたさ。既に8年経っている震災を、語ろうとする際のボキャブラリーの少なさ。これは僕たちが今まで語ることを怖がり、口をつぐんできたことで、この先もずっと残っていく感覚だと思われます。そして語らないことによって僕らの知らないところで問題はさらに深刻化していき、いつの間にか取り返しのつかないことになってしまいかねない。僕らは純粋な震災の当事者ではありません。未だにその感覚は深く刻まれ残っています。しかし震災を語れないことに関しては僕らは今まさに当事者であり、被災地の復興という問題も現地に行ってみれば、日本全体が抱える問題の縮図でもあったのです。それを考えることは誰が先頭に立つべきだとか、声を上げるべきだとかではないと思うのです。誰もが当たり前のように震災や復興について話せる環境に少しずつでも整えていく、変えていくことが必要であるし、なによりそうして社会を変えていくことにこそアートが必要だと思ったのです。
僕らがまずやろうとしているのは、その第一歩として「一緒に考えて少しでもいいから自分の言葉で語ってみようよ」という取り組みです。そしてそれは誰がいつやるべき問題ではなく、誰でもいいから今すぐやるべき問題だと思ったのです。それがなぜanoがいま震災を考える作品をつくるのか、という問いの僕らなりの答えです。