生産性という言葉
日々生きてる上で生産性のある毎日を生きたい。常々、そう思って生きて来ました。昨日より知識や経験を得て成長した自分であることで、一歩一歩前に進んでる自信がつく気がして……。しかし、人生そんなに甘くないみたいで頑張ったけど1日がなんとなく過ぎてしまう日もあります。そして、社会はさらに甘くないみたいで、常に自分に対して生産性を求めてくるようなきがします。「お前はなにができるんだ?」「お前は何の役にたてるのか?」と。自分が自分に対して課す生産性と他人が自分に課してくる生産性は、言葉の意味も圧力もまるで違います。しかし、生産性という言葉は、すぐに結果を求めるようなニュアンスを含んでいるような気がするのです。
アートに生産性はあるか?
では、アートに生産性はあるのでしょうか? もしかしたら、世間の人が求めるような生産性はないのかもしれません。食事や住居、医療や介護、福祉、教育など命を続けていく上で絶対必要なものはあります。そこに、アートを含めない人もいるでしょう。僕も演劇のチケットを手売りする時にいろんな人に感謝と希望をこめて頭をさげます。しかし、やはり興味のない人には演劇やアートは必要ないものになってしまうのでしょう。なかなか、お客さんを集めるのは時間がかかります。そして、作品は制作にも時間がかかり、お客様に会場まで足を運んでもらって時間を使ってもらわないといけません。すぐに結果を求める生産性とは真逆の位置にあるのかもしれません。
しかし、僕はアートにこそ生産性があるとおもいます。アートには命をつなぐ力は弱いかもしれませんが、人生を豊かにする力があります。僕はアートは日常で一人一人が抱えてる悩みや喜びを可視化することができるものだと思います。人生の余白のようなものです。余白は純粋な目で見ると意味のないものかもしれないですが、その余白にはまた新たにいろいろ書き込める可能性がある。余白には想像力がうまれる。アートは人生に潤いを与えるものなのではないでしょうか? さて、少し脱線したところで、アートの生産性に話を戻します。アートは普段生活していると考えることがない社会の問題を可視化する力があります。その問題を解決することはできないですが、その問題をみんなで考えることができます。僕はそこに生産性を感じます。もちろん「そんなの時間かかるし、面倒くさい」と放棄することは可能ですが。
生産性=結果の方程式を問い直す
これまで言って来たことが矛盾していますね……。ここからが本題です。僕は「生産性は結果だけが全てでは無い」のではなかろうかと思うのです。結果はあくまで結果で、大事なものはその結果についやした過程だと思うのです。結果が出なければ意味がないのではなく、結果を産み出すための活動や過程に意味があると思うのです。日々生活してて、まえに進めず気づけば過ぎてしまった1日があったとしても、前に進むためにもがいた1日はとても価値のある1日だと思います。つまり、生産性に結果や結果が出るまでの即効性を求めるのは少しもったいないなと思うのです。生産性を考えるとき、過程も含め結果というものを見ていく「長い目で」というキーワードがあったほうがいいのではないだろうか、そう思うのです。先の参議院選挙でれいわ新選組の代表である山本太郎さんはこう言っていました。「何もかもを生産性ではかる世の中を変えたい。意味がなきゃ、誰かの役に立てなきゃ生きていられない日本を変えたい」と。そして、ふなごやすひこさんと木村英子さんを国民の協力を得て国会に送り出しました。僕は山本太郎さんがやったことは、生産性を否定したのではなく、生産性の意味を変換したのだと思います。これから、国会は変わっていかざるおえないでしょう。長い目で見てみんなで議論しながら徐々に変化していくでしょう。
被災地に対する生産性
被災地にとっても「いち早く復興を」という即効性を求める傾向があると思います。もちろん、復興が早いに越したことはありません。しかし、復興は誰のものでしょう? 被災された全ての方々のものです。被災された方々の心を置き去りにする復興は本末転倒だと思います。また大熊町など、放射能で住めなくなった場所は、人が住めないから人を移住させておわる話なのでしょうか? 使えなくなった土地は捨てておしまいなのでしょうか? そこにすむ動物たちは? 植物は? さまざまな問いがうまれます。それをすぐ結果が出ないから生産性がないからと蓋をするのではなく、みんなで考えていきたいのです。そこに真の生産性があると僕らは思うのです。作品を通して時間や労力がかかることをみんなで考えていけたらと思っています。少しでも共感、ご賛同いただけたらこの活動のご支援と拡散よろしくお願いします。