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震災から8年経った福島の今を考える映像作品を作りたい

東京で活動するアートチーム anoが福島をテーマにした映像作品の制作のため、現地で取材する資金を募ります。

現在の支援総額

145,000

28%

目標金額は500,000円

支援者数

20

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/08/01に募集を開始し、 20人の支援により 145,000円の資金を集め、 2019/09/30に募集を終了しました

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震災から8年経った福島の今を考える映像作品を作りたい

現在の支援総額

145,000

28%達成

終了

目標金額500,000

支援者数20

このプロジェクトは、2019/08/01に募集を開始し、 20人の支援により 145,000円の資金を集め、 2019/09/30に募集を終了しました

東京で活動するアートチーム anoが福島をテーマにした映像作品の制作のため、現地で取材する資金を募ります。

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#地域 の付いた活動報告

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イメージとは違った浪江町僕らは今年6月に初めて福島県双葉郡浪江町に訪れました。実際に訪れる前にgoogleマップを使って浪江町の様子を確認した時、2013年〜2016年の画像データしかなく、2019年の状態がわからないまま現地を訪れました。僕らが事前に調べた時の印象としては、「町は荒廃し人が少なく建物も少ないのではないか? 沿岸部などは封鎖されているのかもしれない」といったものでした。実際に訪れてみるとその印象は「あっている面もあるが、違う面もあった」というのが正直な感想です。確かに町には人は少なく閑散とした所はありますが、僕らが思い描いていた荒れ果てたような印象はなく、復興に向けて少しずつ歩き出そうとしている町という印象でした。震災当時大きな被害を受けた町、という印象が僕らの中でとても大きく、メディアやネットからのイメージが肥大化していたのだなと改めて思いました。ただ沿岸部などは大規模な護岸工事や道路工事もあり、通行できない道もありました。震災当時のまま残っている建物もあり、取り壊しの作業をしていたり、イメージ通りだった場所も確かにありました。沿岸部に残っていた建物現地に訪れることでそうした断片的なイメージが、現実の浪江町として認識できたことだけでも僕たちとしては収穫でした。ここで生きている人がいる、復興に向けて歩もうとしている人がいる、その方と直接触れ合えただけでも東京でアートをつくろうとしていた時よりも語れる言葉や、語り方が変わったと思います。自分の実感のこもった言葉が少しだけ話せるようになった気がするのです(もちろん僕たちはどこまで行っても、外部の目線でしか復興については語れないのですが)。暖かく迎えてくれた町民の方々 ~浪江町はこんな場所だった~さて僕らは野馬追取材の一日目に、「一般社団法人まちづくりなみえ」さんが主催する~なみえ まちづくりを考える駅近キャンプ~に参加させてもらいました。「まちづくりなみえ」さんは、世界で一番、過酷かもしれないまちを、世界で一番、ワクワクがあふれるまちに。をスローガンに2017年3月末の避難指示一部解除から、浪江町の再生事業に取り組まれています。僕らが到着すると既にキャンプ会場には町内の人が準備を進め、イスに座りながら談笑をされている所でした。「おお、来たんだね。まあここ座って、とりあえず駆け付け一本だ」そういって鮎の塩焼き(!)を出してくれました。見ると円状に並んだイスの中心には大量の串に、大量の鮎が塩焼きになっていました! 食べてみるとめちゃくちゃおいしい! 昔は時期になると300匹以上は軽く獲れていたんだそうです。また鮭狩りも有名で、1日1000匹~3000匹もの水揚げがあったんだとか。水もおいしく、ということはお酒もおいしく、本当に豊かな自然に囲まれた町だった場所なのだと伺いました。ただ現在は山間部は未だに帰還困難区域となっているため、漁の全面再開などの目処は経っていない状態です(今回の鮎は町外からの仕入れだったそうです)。今回お話を聞かせて頂いた方たちは、みなさんそれぞれに浪江町の事が本当に大切で、これからどうしていくべきなのかを真剣にお話されたりしていました。でもそんな中にもイオンが出来たことや日常の出来事などのお話も聞けて、本当に内部というか、本音のお話を聞けた気がして参加させてもらえて良かったと思った瞬間でした。どの方も急な連絡での参加だったにも関わらず、笑顔で迎えてくれ僕たちの質問にも快く答えてくださいました。浪江町の現状は未だ「世界で一番、過酷かもしれない」ですが、そこで復興に向け着実に歩んでいこうとする方たちが、今日も生活されています。「まちづくりなみえ」さんでは、毎月何らかのイベントを行われています。興味がある方はぜひ「まちづくりなみえ」や公式facebookページ「つながろうなみえ」、「なみえまるみえ」など調べてみてください!アートの取り組みお話の中で浪江の小学校で演劇WS(ワークショップ)をやっていたみたい。というお話がでました。どうやら調べてみるとメンバーの大橋が現在参加しているWSファシリテーター養成講座で、お世話になっているNPO法人pavlicという方たちのWSだったようです(興味がある方は調べてみてください)。こうした取り組みが既に行われる環境になりつつあることが、僕にとっては驚きと共に喜びでもありました。ようやく芸術やアートが人々の役に立てる時期が浪江町にも来ているのかなと感じることができるお話でした。このページを読んでいる方は、もし少しでも興味があったら何かのイベントなどで浪江町を訪れてみたりして頂きたいです。おそらくネットでは本当の浪江町の姿は分かりません。実際に訪れることで、人と触れ合うことでたくさんの事を感じることが出来ると思います。最後までお読みいただきありがとうございました。また次回もよろしくお願いします!


決死救命僕らは先の野馬追を取材に行っている合間をぬって、希望の牧場にお邪魔して来ました。野馬追がおこなわれている、小高の街よりも放射線量が高い森に囲まれた小道を車で走っていると、その看板は急に姿を現します。物々しい看板と迫力のある重機をみると、ここが帰還困難区域になった場所ということを改めて実感します。身が引き締まる思いで看板の横の入り口から小道に入っていくと、奥に放し飼いにされている牛たちがポツポツと見えて来ます。車を駐め近くへ歩いていくと、迫力のある牛たちが僕らをお出迎えしてくれました。イメージしていた牧場と違いそこは柵などなく、一本の針金がはってあるだけのエリアで、牛がこっちに向かって来ないかすこし怖くなるくらいでした。泥の中でパイナップルの切れ端を食んでいた牛たちを観察していると、そこに「待たせたね」という声がしました。牧場主の吉沢さんです。吉沢さんは震災が起き福島第一原発が事故を起こした後、帰還困難区域に取り残された家畜や動物たちのおせわをしています。吉沢さんは僕たちを牧場の横の納屋に案内してくれました。そこには多くの資料や当時の写真があって牧場での活動や生活を僕らに説明してくれました。命を扱っている吉沢さんが見せてくれた写真の中には、死んで行った家畜たちの姿がありました。骨と皮だけのミイラになった牛、ピンク色の液体のようなものに浸かっている牛(近くでよく見るとその液体は全てウジ虫の集まりだった)などの写真をみながら吉沢さんはこう言っていました。「自分の育てた牛たちがこんな状態になった仲間たちは、トラウマで、もう牛飼いなんかできない。ここは物理的に戻ってこれない場所になった。でも精神的にも昔に戻れない状況になってしまった」と。そして、「ここの牛たちは牛肉になるための牛だが、放射能で被曝してもう金にもならない。でも、俺らは命を扱っているんだ。金にならないからと言って意味もなく殺してしまっては命に失礼じゃないかと思うんだよね。だから俺はこいつらが、いつまで生きられるかわからないけど死ぬまで世話をするつもりだよ」とも仰っていました。なかには、帰還困難区域から避難せず、牛を世話している吉沢さんを批難するひともいるようです。でも、吉沢さんは「そんな人たちの気持ちもわかるんだよ。必死に育てはぐくんできたものを一瞬で持って行かれたんだから、悔しくてたまらないよ」と仰っていました。記録として残す国は今回のこの事故を隠そうとしていると吉沢さんは仰っています。被爆した牛や豚を殺してその事実を消そうと。現に希望の牧場にも牛の殺処分命令が来ているそうです。しかし、こんな事故を起こしてしまったからこそ、その記憶を風化させてしまってはいけないんだという想いで、震災後ご自身も被爆する覚悟で牧場を運営して来たそうです。「自分の牛は国の命令で泣く泣く殺さなければいけなかったのに、なんでお前のとこの牛は生かしてるんだ?」って言ってくる同業者のためにも、ここを続けて行かないといけないという想いもあると思います。僕らはここまで命をかけて原発事故の記憶を残そうとしている方の活動やお話を聞いて、この牧場を多くの人に知ってもらわないといけないと思いました。そして、少しでも多くの人に足を運んで考えて欲しいと思いました。「命ってなんだろう?」「原発の事故ってなんだったんだろう?」と。その答えは僕らもまだ出ていませんが、時間をかけてみんなで考えていくことが、この時代に生まれ原発事故を引き起こしてしまった我々人類の責任ではないのだろうか? とすら感じました。希望の牧場での取材はとても内容が濃く長くなるので、続きの活動報告は【希望の牧場パート2】で報告させていただきます。また、希望の牧場について気になる方には木村友祐さんが書いた『聖地Cs』という小説をご紹介します。希望の牧場を取材されて書かれている作品なので、僕らが現地で吉沢さんから聞いたようなお話の内容がたくさん詰まっているので、オススメです! ぜひご興味ある方読んで見てください。


野馬追を初観戦
2019/08/03 18:04
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7月27日〜29日に福島県の南相馬市の伝統行事である野馬追祭りをみてきました!鎌倉時代から始まったというこの祭りは、相馬中村神社・相馬太田神社・相馬小高神社の3つの神社の祭礼です。雲雀ヶ原祭場地を中心に旧中村藩領各地で開催され、御行列・甲冑競馬・神旗争奪戦・野馬懸などをおこないます。大興奮馬つまり動物とともに催すお祭りは珍しく、日本全国をさがしても、これほど大規模に人が集まるお祭りはここだけなのではないでしょうか?僕たちが二日目に見に行った、甲冑競馬は圧巻の迫力で風に舞う旗の音、甲冑の擦れる重々しい音、力強いうまの足には血が沸き立つように興奮しました。また神旗争奪戦で獲得した旗を持って馬が総大将のいる丘へ勢いよく駆け上がる様は、まるで馬も喜び駆け上がっているようでした。地域の誇り震災後は参加者や参加する馬が激減した野馬追は、いちじは廃止に追い込まれたそうです。しかし、この間の野馬追を見て僕らが感じたのは、このお祭りは地域の誇りとなって、復興の支えとなり、希望を生み出しているということです。南相馬博物館の学芸員である板倉さんは「まだまだ、震災前のような人の参加人数には及ばないが、震災当時にくらべると少しずつ参加人数はもどってきている」と仰っていました。また板倉さんはこうもおっしゃていました。「いくらその町の道路や建物が綺麗に元どおりになっても、そこに住む人の生活や文化コミュティーが潤わないと真の復興とは言えないのでしょうか。」震災がおき住んでいた場所を離れざるおえなかった人は大勢います。僕らの取材をうけてくれた板倉さんもそのひとりでした。そして、数年前にまた自分の故郷である南相馬市にもどってきたそうです。しかし、戻ってきた時にご近所の人たちが変わっていたそうです。違う場所に住み着いた人、そのまま住んでいる人、外から来た人など当時できていた地域の関係性は変化し、ゼロ地点のフラットなものへなっていたそうです。僕たちは地元のコミュニティがうしなわれ、このコミュニティが築けなければこの地に復興はないと、お話を聞いておもいました。今回の野馬追は震災でバラバラになった関係性を束ねる糸口になるのではないかと感じました。相馬野馬追祭は地域のバラバラになった人々一人一人が持っている共通の記憶であり、地域の誇りです。離れていても自分の故郷にこんなにも素晴らしい祭りがあるというのは、プライドにもなるだろうなと思いました。規模は少し小さくなってもこれは本来のあるべき姿で、人がお祭りや祝祭を催す原点ではないでしょうか。野馬追の賑わいと南相馬の復興は切っても切り離せないものになっていると思いました。今後この野馬追がどのように変化し盛り上がっていくかが楽しみです。南相馬市博物館〒975−0051福島県南相馬市原町区牛来字出口194番地開館時間 9:00~16:45(最終入館は16:00まで)休館日  毎週月曜日及び12月29日〜1月3日(月曜日が休日の場合は翌平日)観覧料 一般:300円(250円)    高校生:200円(150円)    小学生:100円(80円)    (  )は団体料金※企画展開催中は観覧料が異なる場合があります。※「団体料金」は20以上の場合です。※障がい者の方は無料です。(手帳の提示が必要です)※市内に居住・通学する(飯館村を含む)小中高生は無料です。