劇団・希望舞台です。
被災地公演のきっかけを作って下さった現代の赤ひげ先生、福島県広野町・高野病院の本田徹先生と理事長の高野己保さん。
高野病院は、震災時に地域の入院患者を守り抜いた病院です。
高野病院での診療だけでなく途上国や東京のドヤ街「山谷地域」での医療活動などの本田徹先生の取り組みが、9月29日に毎日新聞に掲載されていました。
※毎日新聞『ストーリー︓⾚ひげ先⽣、⾃ら地域の中へ 必要な医療届ける』(9月29日付)
***以下、新聞記事より抜粋***
11年3月11日の東日本大震災では1週間後から支援にあたった。翌12年から福島県いわき市の病院に週1回勤務。そんな時、高野病院に訪問看護ステーションができたと耳にした。山谷での訪問診療の経験から興味を持ち、訪ねた。そこで出会ったのが高野己保(みお)理事長(52)。病院での勤務を請われた。
高野病院は福島第1原発の南22キロにある。広野町は震災直後に避難指示が出されたが、高野理事長の父で院長(当時)だった英男さんが「動かすと命に関わる重症患者がいる」として、避難せずに診療を続けた。高野病院以外の双葉郡の病院は住民の帰還が進まないことや人件費の高騰などで経営の見通しが立たず、避難後に再開できなかった。昨年、県のふたば医療センターが稼働するまで、高野病院は郡内唯一の病院だった。常勤は英男さん1人。入院・外来患者の対応に加え、救急搬送や時間外診療も増えた。英男さんは16年、病院敷地内の火災で亡くなった。81歳だった。もともと「医療過疎」と呼ばれ、職員確保に悩んできた地。震災の避難を機に戻らなかった職員も多く、人手不足が続いていた。
一方の本田さんも偶然、広野町の北隣、楢葉町にある宝鏡寺の早川篤雄住職(79)のそばで働きたいと考えていた。震災前から災害時の原発事故に警鐘を鳴らし、今も故郷を見捨てず事故の責任を問い続ける早川住職の姿に打たれ、事故後の被災地の行く末が気にかかっていた。「70代になり、医師として最後をどこで迎えるか。佐久病院や山谷での経験を生かせば、少しでもこの地域の役に立てるのではないかと考えた」。高野理事長の求めに応じ、今年2月に3人目の常勤医になった。
双葉郡一帯は震災前まで、祖父母、父母、そして子の3世代同居も珍しくなかった。だが避難生活が長引くにつれ、子の世代は避難先で仕事に就き、生活の基盤を築いていく。
「高齢世帯だけが、支えてくれる家族を伴わずに愛着のある故郷へと戻るようになる。地域のコミュニティーを壊した原発事故は罪つくりだと思う。医師の数だけでなく、看護師や介護職、高齢者の施設も少なく、安心して暮らせるようにはなっていない」
***新聞記事抜粋、以上***
本田先生、高野さん、大切なきっかけをくださり、ありがとうございます!