2019/12/06 18:00
 今回の鳥公園の創作体制変更に始まる問題提起に対して、様々な方から応援や応答のメッセージをいただきました。ご紹介していきます!

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 鳥公園の新体制に向けた試みは、重要な「実験」のひとつだと捉えています。9月に発表した文章(https://artscape.jp/focus/10156996_1635.html)でもわたしはこの新体制移行について少し触れましたが、流動性を増すアジアの舞台芸術において、「持続可能なエコシステムの構築」は大きな課題になっていると認識しています。鳥公園の「実験」は今後の舞台芸術の共有資産となりうるものでしょうし、今回のクラウドファンディング(以下CF)も建設的な議論を呼び起こす試みとしてぜひ機能してほしいと思います。ただ、提言文が「支援」を検討する側にとっては長くて複雑であり、舞台芸術の未来を変えようするためのものなのか、鳥公園という個別の団体を応援するためのものなのか、混乱してしまうというのが正直な印象です。

 ともあれ、「応援のメッセージ」でなくてもいいので鳥公園の今回の問題提起に対してコメントを、とご依頼いただいたので、何かしらの対話に繋がることを願って、以下に思うところを書きます。


▼呼びかけている対象は誰なのか?

 まず今回のCFの文章を読みながら気になったのは、「呼びかけている対象は誰なのだろう?」ということでした。「鳥公園のファン」+「東京を基盤にしている舞台芸術関係者」でしょうか。Google翻訳も難しそうな複雑な日本語で書かれている以上、例えば海外で舞台芸術の状況を憂いている人たちの存在は(あえて?)対象には入れていないように映りました。

 また、メンバーの和田ながらさんは京都を拠点に活動されていますが、にもかかわらず今回のCFのリターン(闇鍋や読書会など)を享受できる場所がほぼ「都内」か「横浜」になっているのは、主な対象として関東在住の人が想定されているのかなという印象を受けます。

 例えば京都の舞台芸術関係者や観客が、このCFを自分たちに関わるものとして受け止めることができるのかどうか。「連帯」や「関係」を考える上ではフィジカルな(直接対面できる)場は重要です。もちろんある特定の場を選択するのはやむをえないことですが、関東という場を選択しているという事実について自覚しているのか、無意識なのか……。文面からは後者に思えてしまい、関東から遠い場所にいる人たちが参加できるような「かかわりしろ」はあまり感じられませんでした。「観客育成」と言う時、それは関東在住(特に東京?)の観客のことを想定されているのでしょうか。


▼助成金とジャパンマネー

 日本の助成金のシステムには確かに問題があり、問題はより深刻化しつつあると感じます。だからこそ、芸術や文化行政に関わる人たちがそのあるべき姿について議論していくことも重要なのでしょう。ただその時に、その多くの議論が、どうしても「日本」の「舞台芸術」の枠内だけで考えて問題解決を図ろうとしがちに見えるのですが、そのやり方には限界があるのではないかとわたしは感じています。日本の行政組織の問題、人々のアートフォビアの問題、モデルとなりやすい西欧との「公共性」意識の違い、それらの結果として現れてくる「税金=公共性=検閲=自主規制」という連鎖的なロジック……等々、突破しないといけない壁があまりにも巨大すぎ、「日本」の「舞台芸術」に対する正面突破ではその固い壁を崩すのは困難にも思えます。日本という国家が一度解体されるくらいの変化が必要なのかもしれません。壁に杭を打ち続けていくことは必要でしょうが、一方で、例えばジャパンマネーに依存しすぎないで活動する方法を模索する、といったことも新しいエコシステムの構築に繋がるかもしれません。金は天下の回りものと言いますが、日本円だけでなく、この地球上に出回っていたりストックされたりしているいろんなお金をどう循環させていくのか。お金の問題にかぎらず、「日本」だけではないフィールドで変えられるところから変えていく、という戦略も必要ではないでしょうか。

 また、日本国内においても地方都市を拠点(のひとつ)にする人にとっては、「日本」という国単位だけでなく、その地域や周辺地域でその土地に発生しているグラヴィティ(重力)と向き合いながらどうやってエコシステムをつくっていくかという課題もあります(グラヴィティについてはこちらを参照 https://www.engekisaikyoron.net/korekara_3/)。その場合、他地域の事例を参考にしたり時には連携したりしつつ、かなり具体性のある活動を地道にやっていく、ということになるはずです。例えばその人たちにとって鳥公園の「実験」が、有効な参考事例として映るのか、それとも前衛的だけど無関係なものとして映るのか。例えばフィジカルな場として東京・横浜をメインとする場合、それらの都市に特有のグラヴィティとどう向き合うのか、鳥公園なりの解像度(分析・ヴィジョン)がもっと具体的に見える必要があるのではないでしょうか。現状では、わたしの目にはその解像度がまだ粗いものとして映っています。


▼「創作のことだけを考えて過ごせる時間」とは?

 提言の中で書かれていたこの言葉の意味を考えています。例えばわたし自身にとっても、考えごとをしたり創作に集中するための時間は必要不可欠なので、それが「当たり前に必要」という言葉には同意します。ただ、提言の文面からは、それがどのような種類の時間を意味しているのか理解しきれなかったので、もう少し、どういう意味なのかお聞きしたいと思います。

 例として挙げられていた城崎国際アートセンターでの滞在制作は、わたしも経験していて、確かに理想的な環境だとは思いますが、その城崎にしても、あの環境を創造して支えてきた人たちの努力があり、地域コミュニティとの関係構築や、政治との距離等、いろいろ簡単ではないこともあるはずです。個々の滞在アーティストにもよるでしょうけども、あの場所にひとりひとりが滞在して町の人たちを魅了してきたということ自体が、あの理想的な環境を少しずつ育ててきた、という言い方もできると思います。もし、「つくり続けるための場所と方法」として、城崎のような環境をいろんなところにもっとつくりたい、と考えるのであれば、誰かがそのために尽力しなければなりませんし、時間もかかります。

 最近、ある村で活動するアーティストに会ったのですが、彼女は地域おこし協力隊としてその村に入り、公費を使ってアートプロジェクトやレジデンス施設を創造しようとしています。その村においては、アートにまつわる場をつくること自体が一大ミッションで、膨大な交渉や説得が必要なことは想像に難くありませんが、では彼女にとって「創作のことだけを考えて過ごせる時間」とは、そのようなやりとりのプロセスも含むのか、それとも誰かがつくってくれた「自分だけの部屋」やアトリエや稽古場に籠もって創作に打ち込む時間のことだけを指すのでしょうか。


▼コレクティブの形態

 最後に、コレクティブの形についてですが、作・演出をできる人たちが集まっている中で、戯曲は西尾さんが書く、のだとしたら、鳥公園はやはり主宰と劇作を務める西尾さんを軸にして回っていくのではないかと思います。そのような中心的な構造(役割分担)を保持することが果たして理想的な「公園」なのかどうかはやや疑問です。今後様々な役割分担の可能性を提案できるようになれば、もっと「公園」らしくなるのかもしれません。鳥公園が必ずしも「公園」を目指す必要はないと思いますが、集団内における権力や意思決定のあり方については最近いろいろ考えているところでもあり、コメントとして触れておきます。


   藤原ちから(orangcosong、アーティスト/批評家)