2019/12/12 18:00

「わたしだって応援してほしいのだけれども

 

筒井潤(演出家・劇作家・公演芸術集団dracomリーダー)


 今回の西尾佳織さんのステートメント売名行為と捉える人もいるかもしれません私はそうは思いません。地位や名誉ではなく、あくまでも彼女がひとりのアーティストとしてより充実した創作環境を手に入れたい、そしてそのために一度自分を戒めておきたいだけなのです。いまは演劇の制度そのものが問われています。それを彼女は大風呂敷を広げることなく、自身や鳥公園における問題に置き換え、実際に試行錯誤しているのです。理念を云々するだけでなく、実践誠実さを私は応援します

 

 私が(おそらく彼女も)望んでいるのは、彼女の考えや鳥公園の新体制に刺激を受けた演劇人たちが、それを真似たり上書きしたりしながら各々が好き勝手に創作活動を始める/続けることです。周りの人たちが彼女を演劇業界の小さな一角の代表として担ぎ上げ、「私たち」という主語で語るように要請してはなりません。鳥公園の新体制発表とクラウドファンディングという機に世に問うたのはうまい演出です。様々な支援を受けながらも「私たちは」と言わずに多くの人に語りかけ、かつ実践できるからです。

 

 人と人は信頼し合えるに越したことはありません。しかし、信頼関係を頼りにして同じメンツだけで言葉を交わし合っている限り、そこに属しない外側の人にとって、その関係性、そしてそこから生まれる創作物いつまでたっても他人事でしかないのです。外側にアプローチするために必要なのは、仲良しのアピールではなく、構造を明らかにすることです。そのときに初めて、社会が繋がる、繋がろうと努めてくる、または繋がれなさを(ときには暴力的な態度で)示してきます。とにかく、個々の芸術作品にしろ、芸術団体にしろ、その構造が明らかにされて公共性を持ったときに運動が生じ、社会の側が対応を迫られるようになるのです。

 西尾さんが黙って構造(=体制)を変えるという選択もできたはずです。そうしなかったのは、構造をクラウドファンディングという方法で露わにするという演出によって、鳥公園により一層の公共性を持たせたかったからでしょう。

 

 

 私がここにコメントすること自体、西尾さんによる鳥公園への演出で。鳥公園をどう演出するか、という話なのです。鳥公園さえ演出できていれば、そこでどのような創作物が生まれようとも、西尾佳織さんの演出下にありますこのメッセージが集まっているサイトがすでに新体制に関する議論の場として機能しています。それも彼女の演出で演出を施すと、それはどこまでもどこまでも演出家の目が届かないところにまでも行き渡ります俳優や他のスタッフ、鑑賞者プライベートにも行き渡りますとても恐ろしいですもし演出家自身がこの恐怖に耐えられなくなったら廃業するしかありません演出家が父または長男を、俳優やスタッフはその家族演じなければならなかったのは、近代社会が捏造した精神に依拠しなければお互いにこの無限の恐怖に耐えられなかったからです。

 

 演出家のすべての言動は、どこまでいっても演出を施させてしまいます。そして演出家には、大きく分けて次の3つのタイプがいます

(1)この状況を確かに受け止めて責任をとる演出家

(2)この状況を認めているが責任を放棄する演出家

(3)責任が生じていることに気づいていない演出家

 演劇業界が、活力に満ち溢れて元気そうだけれども、外から眺めたときに不健全と思われる理由は(2)(3)の存在です。このどちらかでないと無邪気に演出という仕事は務まらないのが残念な現状です(1)のタイプの演出家はみんな悩んでいるという話を聞きました。無意識家父長制に依っていたことに気づき、動揺しているのですもちろんそれぞれのタイプを複合的に抱えている人もいます。最近の情勢から(2)→(1)、あるいは(3)→(1)へと移行したものの、そこで初めて大きく立ちはだかる家父長制に気づいて苦しみ、頭を抱えてい演出家もいるでしょう。

 西尾さんは、そして同じ悩みを抱える演出家は、父系家族を演じずにその恐怖と立ち向かう方法、あるいはそもそも恐怖が生じない構造を模索しているのが現状です。私もそのひとりです。

 そこで出てきた考え方が「ひとりの演出家が責任を取らなくて済む構造」です。西尾さんそれを追求しているでしょう。しかし現時点では、作品創りにおいてそれは機能するとしても、彼女個人名義のステートメントが発端となって鳥公園そのものが彼女に演出されている以上、協働する人も彼女の演出からは免れません

 

 コレクティブは本来、誰から言い出すわけでもなく自然と生じるものです。「コレクティブをつくりましょう、この指とまれ」で人が集まった場合、その指の主、あるいは指を出すように促した者の演出によるものとなります。コレクティブを否定しているわけではありません。コレクティブ的創作は可能ですそれで面白い作品が出来上がったケースにもたくさん出会いましたが、それも誰かの演出によるものなのです。実際にコレクティブの関係性をいろんな人から聞いたり調べたりすると、参加者それぞれが平等に意見を言え、それが反映される状態にはなっているものの、必ず話をまとめるのが上手い人がいるらしいです。まとめるのが上手いとは聞こえがよく、結局その人(=天才、持って生まれた才能)態度が平和のうちにさりげなく、しかしながら主導的に演出しているのです。

 

 

主体性 という問題

主体性、なんてものはあるのか

 

作品それ自体が、公共物になることを望む

 

 

 


※ この文章は、私が誤って西尾さんに送ったプロトタイプの、書き殴ったような原稿が元になっています。プロトタイプゆえ、話がまとまっていなくて結局何が言いたいのかわからない印象があります。それでも西尾さんがそっちの方がいいというので、順序を正し、言葉を整え、足りないところは補足した上で、できるだけ読みやすいように提供しています。特に最後の3行は、別件でぼんやり考えていたことを忘れないようにメモしたものなのですが、それも含めて西尾さんが認めてくださったのかもしれないので残しました。

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