
クラウドファンディング最終日です。今日の23:59でおしまいです。 今回のクラウドファンディングでは、金銭的な支援を集めることももちろん重要でしたが、同時に、鳥公園の活動体制の変更(そのベースにある問題意識や目指すところ)を広く知っていただくことと、そこから始まる問題提起にできるだけ大勢の方にコミットしていただくことを目指していました。 大勢の方から言葉を寄せていただいたのは、そのためです。いざみなさんにお願いをしてしまってから、ドキドキしていました。メッセージがほんの少ししか集まらなかったら、どうしよう? みなさんを巻き込んでおきながら、お金が少ししか集まらなくてクラウドファンディング自体がさむ~い感じになったらどうしよう? みなさんの言葉が「頑張れ鳥公園!」みたいな感じで、今の舞台芸術界にある問題が浮き上がってくるようなことにならなかったらどうしよう……? でも結果的には、私が想像していたよりもずっとたくさんの、一人ひとり異なる表情を持った声が届いて、そこにまた反応が返ってくるということが起こりました。ご支援くださった方のコメント(「パトロン」のページから見られます)も、全て有難く拝読しています。 顔の見える声を交わし合うことが大切だと思います。その声の出どころにきちんと身体のある声で話すことが大事です。 あいちトリエンナーレの一件で、クレームの電話の音声がネット上に公開されたとき、きっと電話をかけたその人たちは、まさか自分の声が公開されるなんて思わなかったからああいう声を出したんだろうと思いました。自分の顔を消して、身体を消して匿名の声で話すことは、でも結局自分の存在を否定することになると思います。 身体があって、そこから生まれる声を交わすことで、存在を受け止め合う。そういうプリミティブなことをやり続けているのが、舞台芸術という場なんだと思います。〈場〉があれば、そこに集まる身体があって、響く声がある。それを求めている人はやっぱりまだまだたくさんいるんだと改めて感じることが出来て、わたし自身が力をもらいました。 クラウドファンディングは今日で終わりますが、鳥公園の活動はむしろここからです! どうかこれからも、よろしくお願いいたします。 西尾佳織

クラウドファンディングの終了日まで、いよいよ残り2日になりました。日々たくさんの方からご支援いただいて、本当にありがたく思っております。ありがとうございます。 このタイミングでもう一度、今回のリターンの目玉である【クリエイションに伴走コース】のことを書きたいと思います。こういう支援の形を提案したいと思ったのは、私が2015年からセゾン文化財団のジュニア・フェローの助成を受けてきて、そのことにすごく、つくることと、それをしながら生きることを支えていただいてきたと感じているからです。 ジュニア・フェローは、年間100万円のお金と創作環境として森下スタジオが提供されて、活動の必要に応じて相談やアドバイスを受けられます。お金は基本的に、何に使っても構いません。プロジェクト単位で、「これこれこういうことをします。こんな意義があります。お金がこれだけかかります。だから○○万円ください」と申請する助成金と違って、「あなたというアーティストに賭けてみることにしたので、まあ自由にやってみてください」ということだと理解しています。この信頼の重みが、私にとってはお金以上に有難いものでした。それは、私個人に対する信頼や期待という以前に、「この社会にはアートが必要で、それを生み出すアーティストが必要」と強く信じて行動している人がいるということで、その信念の確かさに私も、つくりながら生きようとすることを肯定されてきたんだと思います。 そういう応援の仕方が、個人単位でもあり得るようになったらいいなと思いました。それが今回の、クリエイションに伴走コースです。3人の演出家それぞれと話して、それぞれの望むことと、私が3人それぞれに望むことを織り合わせて、2020年度の活動内容を決めました。 * ながらさんは、自分のやりたいことが先にあるというよりは、いろいろな流れの中で自分の元にやって来た他者(戯曲や、誰かから渡された問題意識や、人生の中で自ずと浮かんできたテーマ)に徹底して応答することから作品が生まれるタイプということだったので、私が2016年に自分の幼少期を題材にしてつくった一人芝居「2020」の上演をお願いすることにしました。 作品が誕生した経緯や当時の企画詳細についてはこちら https://note.com/kaorinishio/n/nc022a2ba413b をご覧いただければと思うのですが、簡単に紹介すると、①自分のプライベートなことを題材に書いた一人芝居の戯曲を、演出・出演まで含めてまず全部自分でやる②それを3人の俳優に渡して、演出は西尾が担当して、一人芝居×3バージョンをつくる③そうすることで、当事者性ってどこまで拡張できるのか? 俳優は他人の話をどこまで大事にできるのか? を考えたいという企画でした。 そんな経緯で生まれた作品を、今度は丸々ながらさんに託したいということです。 それと同時に、からゆきさんのリサーチを元に、「2020」の続編というつもりで書いた「なぜ私はここにいて、彼女たちはあそこにいるのか~からゆきさんをめぐる旅~」の戯曲のブラッシュアップにも、ながらさんに付き合ってもらいたいと思っています。 * 蜂巣さんは、ここ数年私がフィールドワークやリサーチから戯曲を書いて、そこから上演を立ち上げるやり方をしてきたことに興味を持ってくれて、「リサーチに同行したい!」と言いました。私も、演出家がリサーチのプロセスから立ち会うと上演にどう影響するんだろう?と興味があって、「OK、じゃあどこかに一緒に出かけることから始めよう!」ということになりました。(何をテーマに、どこへ行くかについては、私たちの間ではある程度固まってきているのですが、ちょっとまだ秘密です。) 劇作家は基本的にあまり稽古場に行かない方がいいんじゃないか?というのが私の元々の考えだったのですが、蜂巣さんが「稽古の様子を見て西尾さんがどんどん戯曲を直していくやり方にも興味がある」とのことだったので、「じゃあ蜂巣さんとのクリエイションでは、そういう風にしてみよか」と言っています。たぶん一番、劇作と上演が混ざり合って進んでいくことになりそうです。 * 三浦さんは唯一劇作もする人なので、1年目は戯曲が生まれるまでのプロセスをじっくり一緒にやってこうと言ってます。普段は「上演のためのテクスト」に直進してしまうことが多いけど、今回はそうしないで、しばらくは果たして台本になるのか分からないままでテクストの断片や対話を積み重ねよう。そしたらそのうち、構成して編集して戯曲の形に整えたくなるタイミングも来るだろう。題材は、三浦さんが大学院で研究してきた「幽霊」にしよう。 それとは別に、「アタマの中展」で三浦さんがリーディング上演に取り組んでくれた「ヨブ呼んでるよ」もリライトし、2021年にはフルスケールで上演してもらう予定です。 * それぞれのアウトプットがどんな最終形になるかは不確かですが、その不確かさも含めて受け止めていただけたら、私たち一人ひとりにとってその重みはきっと忘れられない記憶になります。アーティストとして息長く活動していくための足場になります。どうぞよろしくお願いします。

筒井さんがくださったメッセージ(https://camp-fire.jp/projects/192699/activities/109119)の最後の三行「主体性 という問題 主体性、なんてものはあるのか 作品それ自体が、公共物になることを望む」を読んで、危口さんのことを思い出しました。作家の署名のない作品をつくりたい、搬入プロジェクトが危口さんと全然関わりのない場所でも行われていって、一体誰がつくったのかも分からない、人と人の間に置かれる儀式みたいなものになっていったらいいなとおっしゃっていた。 ……ということを、以前noteに書いていた。劇作と演出、俳優についても書いていたので、転載します。(私には作・演出家というやり方が一番よい、みたいなこと書いてますが、まあそれはそれということで……。)----------2018/04/01 城崎に来て8日が経った。ここでの「生活」がイベントじゃなく生活に落ち着いたようで、あふれ出す料理欲もおさまり、なるたけ簡単に済ましたい。温泉も、遠くのに入りに行くのが面倒くさくなってきた。* * * 安田登『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』を読んでいる。KIACの「動く本棚」にあった。木村敏『あいだ』に続き、この本にもまた私が演出するときに考えてることが書いてある! 以下、ピンと来た部分の、できるだけ引用しつつの概要。 西洋音楽のリズムは、指揮者が「棒を振った時点で、そこにはまだ存在しない未来の時間が決まっている」「つまり、四拍子というのは、未来の時間をあらかじめ確定し、それを四等分すること。指揮者が一拍の長さを示すことで、それに続く未来が決まっていく」。 「対して、「今」を刻むのが」能の拍子。「未来がどうなるのかはわかりません。拍子は、そのときその場所にいる人の呼吸で決まります」。拍子が基本になっている日本の歌の例として、鞠つき歌。「西洋音楽のリズムに慣れた今の子たちは、自分が決めたリズムに合わせて鞠をつこうとします。すると、鞠の弾み方が狂うと途端に鞠つき歌が歌えなくなったり、鞠を取り損なったりします。鞠つき歌の本来の姿は、鞠の弾みに合わせて歌を歌うことです。いうなれば、鞠つき歌をどう歌うかは、鞠が決めているのです。今とは違って、整地されていない地べたに向かってつく鞠です。未来の鞠の弾み方は、鞠をついている人にも予測はできません。「今」の弾みに合わせて歌を歌う。それが「今」を刻むということであり、「今」の連続が拍子をつくっていきます。拍子には、常に「今」の一拍目しかないということもできます」 安田さんの書いていること、すごくよく分かる。西田幾多郎の「非連続の連続」というのも、こういうことなんじゃないか。創作の話だけじゃなくて、生きるというのはこういうことだと思う。あらかじめ確定された未来に上手にはまろうとすると、死んでいく。 拍子はあらかじめあるものじゃなくて、「今」の連続で生じていくしかないもので、私はそれが生じていくように稽古場をつくっていきたいんだけど、「リズムに合わせて歌おう」としている俳優さんが、私の言葉を「未来の時間を確定していく指揮棒の一振り目」として聞いてしまうと、齟齬が生まれる。そしてそれは、返し稽古を重ねるほど開いていく。 ……ということが、上手くいかないときに起こっているんだな、とこの本を読んで言語化された。どういうスタンスで生きるかということは、そんなに簡単に変更可能なことではないけど、少なくとも食い違ったまま食い違いを開かせ続けるのはやめたい。 鞠つき歌の例でいくと、鞠をつきながら歌う人が俳優で、鞠とそれをつく環境・状況(デコボコの地面とか)を作るのが作・演出だろうか。私の中で、ベストのデコボコ感をあらかじめ定めるのは難しい。それは、俳優が鞠をついて歌ってるところを見ながらしか決まっていかない。 鞠が戯曲にいちばん近い気はする。どんな鞠がいいかには、デコボコ具合よりこだわりを持ってしまいそう。だけどそれもやっぱり、俳優のつき具合を見ながらしか本当には決まっていかない気がする。「決める」ことが出来なくて、なんか自ずと「決まっていく」ときが、いい感じのときだ。 しかしそれを(鞠を)、作ろうというのが今回の城崎滞在なわけですが。 * * * 劇作と演出の関係性を、2013年にカトリ企画で岸田國士の『紙風船』を演出したときから考え始めた。考え始めて、私はどうも「劇作家」ではないみたい、ということでそう名乗るのやめよっかな、と思うようになったところで岸田戯曲賞にノミネートされて、あらーそしたらもう少し考えてみようか! と思った。で、考えは続き、今年もう一度ノミネートされ、3月にやった「鳥公園のアタマの中」展でも「劇作家として、自立した戯曲というのが私に書けるものかどうか試してみようと最近は思っています」とか言ったりして、それはそれで真面目に考えてるところでもありつつ本当は(「本当は」ってなんだよって感じだが本当は)どっちでもいいっていうか、私のいちばん興味があるところ、大切にしたいところではない。 「作・演出というあり方がスタンダードになっていることは、日本の小劇場界のけっこう重要な問題なんじゃないだろうか?」ということも、わりと継続的に発言してきたんだけれど、(プロブレムというよりはトピックというか、生じているプロブレムにアプローチする切り口としてあり得るとは今も思っているのだけれど、)でも私自身はたぶん、作・演出家というやり方が一番しっくり来る。というか、私のやりたいことはその形態でないとやれないっぽい。 再び、『あわいの力』(p.22~23)からの引用。 「能には古くから伝わる演目が数多くありますが、明治になるまでは、そうした作品の多くはアノニマスで作者性がありませんでした。誰も自分が書いたことを主張しないし、誰が書いたかなんて、誰も重要だと思っていなかったのです。作者が誰であるかに目が向けられるようになったのは、西洋的な批評的視点が持ち込まれた明治以降のことです。 能の世界の超有名人といえば、間違いなく世阿弥です。 世阿弥はたしかに実在した人物ですが、「世阿弥作」と伝わる作品が、本当にすべて世阿弥が書いたかというと、必ずしもそうもいえません。明治以降にわかってきたことですが、成立年代や作者性を評価した結果、これは世阿弥の作品ではないということが指摘されている作品もあります。逆にいうと明治以前の日本人にとっては、そういうものもひっくるめて、「世阿弥作」でまったく問題がなかったということです。そこには、「個人としての世阿弥」という観念はありません」「世阿弥が書いたとされる『風姿花伝』も、父である観阿弥の言葉を世阿弥が書き写したものです。どこまでが観阿弥の思想で、どこからが世阿弥の思想であるかということはわからないし、はっきり区別する必要もなかった。自分の成果を気にしなくていいどころか、他者から完全に切り離された「個人」という感覚さえ、持ち合わせていなかったかもしれません」 * * * 作品がアノニマスな状態で存在し得るという状況を、いいな~と思う。私個人の名前でなにかを引き受けようとする態度というのは、本当に必要なんだろうか? 作品の評価とか責任とかいうことが誰に属するか確定させるということって、そんなに大事なことなんだろうか? これは、責任逃れしたいとかいうことでは、ないつもりなんだけれど。 「書くことの権力性」みたいなことを、去年『ヨブ呼んでるよ』を書いたときに考えざるを得なくなった。今はまだ、そのことが自分のナイーブな階層、なにかとすぐ顔を出して考えたり言語化したりしてしまう位置にある。 何かを本当に考えるということは、考えようとして考えるようなことでは届かないところに位置を占めることだと思うから、時間がいる。 社会のことを考えるということも、分かりやすく社会的なテーマを扱うとかそういうことじゃなくて、そんな風に説明可能な形で応えることじゃなくて、もっと大事にできると思う。大事にできるというのは誰が、誰を(何を)かというと、作品をつくる人が、作品に登場する人や出来事も、「こんな作品になんの意味があるのかわからないんですけど(説明して)!」と問うてくる人も、つくる自分自身のわかりやすいわけではないあり方も、だ。 方便はだめだ。一瞬は通りが良くなるかもしれないけど、かえって信じられなくなる。そしてそのよじれを回復するのに何倍も時間が必要になる。 だいぶ前(調べたら2012年だった)に悪魔のしるしの『桜の園』(SAKURmA NO SONOhirushi)をトーキョーワンダーサイト渋谷で見たとき、そこで発語される台詞はほとんど『桜の園』じゃないのにものすっごく『桜の園』だーーー!!! と思って、そのあり方をすごくいいと思った。アフタートークで危口さんが、「署名のない作品をつくれたらいいなと思う」と言っていたのをよく覚えている。
「わたしだって応援してほしいのだけれども…」 筒井潤(演出家・劇作家・公演芸術集団dracomリーダー) 今回の西尾佳織さんのステートメントを売名行為と捉える人もいるかもしれません。私はそうは思いません。地位や名誉ではなく、あくまでも彼女がひとりのアーティストとしてより充実した創作環境を手に入れたい、そしてそのために一度自分を戒めておきたいだけなのです。いまは演劇の制度そのものが問われています。それを彼女は大風呂敷を広げることなく、自身や鳥公園における問題に置き換え、実際に試行錯誤しているのです。理念を云々するだけでなく、実践する誠実さを私は応援します。 私が(おそらく彼女も)望んでいるのは、彼女の考えや鳥公園の新体制に刺激を受けた演劇人たちが、それを真似たり上書きしたりしながら各々が好き勝手に創作活動を始める/続けることです。周りの人たちが彼女を演劇業界の小さな一角の代表として担ぎ上げ、「私たち」という主語で語るように要請してはなりません。鳥公園の新体制発表とクラウドファンディングという機に世に問うたのはうまい演出です。様々な支援を受けながらも「私たちは」と言わずに多くの人に語りかけ、かつ実践できるからです。 人と人は信頼し合えるに越したことはありません。しかし、信頼関係を頼りにして同じメンツだけで言葉を交わし合っている限り、そこに属しない外側の人にとって、その関係性、そしてそこから生まれる創作物は、いつまでたっても他人事でしかないのです。外側にアプローチするために必要なのは、仲良しのアピールではなく、構造を明らかにすることです。そのときに初めて、社会が繋がる、繋がろうと努めてくる、または繋がれなさを(ときには暴力的な態度で)示してきます。とにかく、個々の芸術作品にしろ、芸術団体にしろ、その構造が明らかにされて公共性を持ったときに運動が生じ、社会の側が対応を迫られるようになるのです。 西尾さんが黙って構造(=体制)を変えるという選択もできたはずです。そうしなかったのは、構造をクラウドファンディングという方法で露わにするという演出によって、鳥公園により一層の公共性を持たせたかったからでしょう。 私がここにコメントすること自体、西尾さんによる鳥公園への演出です。鳥公園をどう演出するか、という話なのです。鳥公園さえ演出できていれば、そこでどのような創作物が生まれようとも、西尾佳織さんの演出下にあります。このメッセージが集まっているサイトがすでに新体制に関する議論の場として機能しています。それも彼女の演出です。演出を施すと、それはどこまでもどこまでも、演出家の目が届かないところにまでも行き渡ります。俳優や他のスタッフ、鑑賞者のプライベートにも行き渡ります。とても恐ろしいです。もし演出家自身がこの恐怖に耐えられなくなったら廃業するしかありません。演出家が父または長男を、俳優やスタッフはその家族を演じなければならなかったのは、近代社会が捏造した精神に依拠しなければお互いにこの無限の恐怖に耐えられなかったからです。 演出家のすべての言動は、どこまでいっても演出を施させてしまいます。そして演出家には、大きく分けて次の3つのタイプがいます。(1)この状況を確かに受け止めて責任をとる演出家(2)この状況を認めているが責任を放棄する演出家(3)責任が生じていることに気づいていない演出家 演劇業界が、活力に満ち溢れて元気そうだけれども、外から眺めたときに不健全と思われる理由は(2)(3)の存在です。このどちらかでないと無邪気に演出という仕事は務まらないのが残念な現状です。(1)のタイプの演出家はみんな悩んでいるという話を聞きました。無意識に家父長制に依っていたことに気づき、動揺しているのです。もちろんそれぞれのタイプを複合的に抱えている人もいます。最近の情勢から(2)→(1)、あるいは(3)→(1)へと移行したものの、そこで初めて大きく立ちはだかる家父長制に気づいて苦しみ、頭を抱えている演出家もいるでしょう。 西尾さんは、そして同じ悩みを抱える演出家は、父系家族を演じずにその恐怖と立ち向かう方法、あるいはそもそも恐怖が生じない構造を模索しているのが現状です。私もそのひとりです。 そこで出てきた考え方が「ひとりの演出家が責任を取らなくて済む構造」です。西尾さんもそれを追求しているのでしょう。しかし現時点では、作品創りにおいてそれは機能するとしても、彼女個人名義のステートメントが発端となって鳥公園そのものが彼女に演出されている以上、協働する人も彼女の演出からは免れません。 コレクティブは本来、誰から言い出すわけでもなく自然と生じるものです。「コレクティブをつくりましょう、この指とまれ」で人が集まった場合、その指の主、あるいは指を出すように促した者の演出によるものとなります。コレクティブを否定しているわけではありません。コレクティブ的創作は可能ですし、それで面白い作品が出来上がったケースにもたくさん出会いましたが、それも誰かの演出によるものなのです。実際にコレクティブの関係性をいろんな人から聞いたり調べたりすると、参加者それぞれが平等に意見を言えて、それが反映される状態にはなっているものの、必ず話をまとめるのが上手い人がいるらしいです。まとめるのが上手いとは聞こえがよく、結局その人(=天才、持って生まれた才能)の態度が平和のうちにさりげなく、しかしながら主導的に演出しているのです。 主体性 という問題主体性、なんてものはあるのか 作品それ自体が、公共物になることを望む ※ この文章は、私が誤って西尾さんに送ったプロトタイプの、書き殴ったような原稿が元になっています。プロトタイプゆえ、話がまとまっていなくて、結局何が言いたいのかわからない印象があります。それでも西尾さんがそっちの方がいいというので、順序を正し、言葉を整え、足りないところは補足した上で、できるだけ読みやすいように提供しています。特に最後の3行は、別件でぼんやり考えていたことを忘れないようにメモしたものなのですが、それも含めて西尾さんが認めてくださったのかもしれないので残しました。