寺伝では、奈良時代の天平年間に行基菩薩が諸国を遍歴した際、豊田郡和田村(現在の香川県三豊郡豊浜町和田)の正因山に一宇のお堂を建立したことに始まるといいます。長宗我部元親の兵火による消失の後、再建されたが、文禄4年(1595)、豊田郡坂本郷(現在の香川県観音寺市坂本町)に移り、当時は日蓮宗不受布施派に属していました。
慶長2年(1597)には丸亀城主生駒親正公の命により当山中興1世日眼上人の時、現在の地・丸亀に移りました。 寛文6年(1666)に徳川幕府の命により日蓮宗不受布施派が禁止になり、寛文9年(1669)に京都・毘沙門堂の末寺となり、天台宗に改宗し、現在に至っています。
俳人画家・与謝蕪村(1716-1783)が明和3(1766)年秋から同5(1768)年の夏にかけて讃岐国(香川県)を訪れ、妙法寺に逗留して「蘇鉄図」などの絵(国の重要文化財指定)を残したことから、妙法寺は別名「蕪村寺・ぶそんでら」といわれます。
一方、妙法寺は丸亀城下にあって丸亀藩主京極家の祈願所でありました。文久2年(1862)、京極朗徹(あきゆき、第7代丸亀藩主)から京極家の家紋である「四ツ目」の入った幕が元三大師宝前に奉納され、京極家の武運長久を祈願しました。以後、元三大師宝前に四ツ目の紋入りの幕を掛けることが許されたのです。また、京極高豊公(第2代丸亀藩主)が揮毫したの大黒天図が残されています。
現在では、「蕪村寺・ぶそんでら」と親しみを込めて呼ばれ、商売繁昌、家内安全等の信仰を集めている「大黒天」や、厄難災除、魔除守護の「元三大師降魔尊像」が奉安されており、元三大師おみくじ祈願所として信仰を集めています。
写真画像は、『古今讃岐名勝図絵』の妙法寺の様子で、蕪村が逗留して絵を描いた頃も、ほぼ同様と考えられます。
蕪村は写真画像の「本堂」の上座敷つまり本堂の左上の部屋に逗留し、そこから蘇鉄の生い茂っていた庭が目前に見れたのです。それで蘇鉄を画題に筆を取ったということでしょう。
ちなみに蕪村来讃時にあった建物で唯一現存するのが、写真画像左の「大師堂」です(大師堂は宝暦年間に建築と伝わる)。この大師堂の建物を後ろに引いて、現本堂新築と合体しする形で改造改築され、今日に至ります。