明和3年(1766)、51歳の蕪村は京都を離れ、讃岐へ赴きました。讃岐・琴平には望月宋屋門下の俳人が多く住んでいて、その中に当時妙法寺檀家総代の菅暮牛(金川屋という琴平の豪商)がいました。
菅暮牛をはじめとする琴平の俳人仲間を訪ねるため、明和3年のある秋の夕方、蕪村は海路・丸亀の港に上陸した。そして一夜の宿を借りるべく妙法寺を偶然に訪れたのです。妙法寺中興10世住職の真観上人の時でした。その時の蕪村は無一文で、まるで乞食のような格好であったと伝えられています。
その後、菅暮牛の案内で再び妙法寺を訪れる機会を得た蕪村は、真観住職との再会を喜ぶとともに、一夜の善根宿と運命的な再会が縁で、絵を嗜好していた真観住職と意気投合し、蕪村との親密な交流が始まったのです。
蕪村は一度京都に戻るも、再度讃岐を訪れ、菅家(琴平・金川屋・臨川亭)、富山家(高松・三倉屋)、妙法寺などに滞在しました。
讃岐滞在の間に数回にわたり妙法寺を訪れ、明和4年から明和5年の初夏にかけて妙法寺に逗留し、お礼の意味を込めて、蕪村は客殿の襖を表装し、絵を描き、真観住職の歓待に応えたのです。京都へ帰るとき、妙法寺で俳句を残しています。
長尻の春をたたせて棕梠(しゅろ)の花
と讃岐香川での様々な思い出を胸に、少々長く逗留しすぎたことを詠んでいます。
さて、琴平の柳谷墓地の一角に菅家ご一統様のお墓がずらりと並んでます。ちなみに菅冬扇は菅暮牛のお父様で「冬扇之墓」とあります。
これら江戸時代の菅家のお墓群ですが、「冬扇之墓」しかり、戒名が彫られていない墓石がほとんどです。
明和3~5年にかけて蕪村は琴平の俳句仲間を訪ね、琴平で逗留した菅暮牛(金川屋左平太)の家は「臨川亭」といい、現在の橋本屋旅館(平成30年に廃業)です。金倉川にかかる一の橋麓にあり、「臨川亭址」の石碑が建っています。
また、蕪村が明和4年に琴平で詠んだ有名な俳句が「象の眼の笑いかけたり山桜」です。
菅家の先祖ははじめ美作国弓削庄にいましたが、慶長年間に備前国金川村に移り、寛永5年、時の金光院別当住職宥睨(ゆうけん)に招かれて金毘羅へ移ったといいます。だから金川屋なんですね、きっと!。
菅家は代々酒造業を営んでいました。菅一族は菅冬扇、暮牛、岱石、岱山など多くの俳人を輩出し、菅冬扇が5代目、その息子の暮牛は6代目です。妙法寺の檀家だったことから後日、暮牛が蕪村を連れて妙法寺へお越しになり、当山と蕪村のご縁ができました。
菅暮牛のお墓の表裏ははっきり読めます。
[表]東皋之墓
[裏]東皋姓菅諱政甫稱左平太。寛政十一年己未歳六月廿九日終寿七十四。
暮牛は金川屋左平太といいます。また、「備前国金川村」というのは、戦国時代に備前・松田氏が城主だった金川城があった所です。金川つながりで菅氏と松田氏と蕪村が繋がったように感じます。
橋本屋旅館1階フロントの所に掲げられている「史跡臨川亭址」の蕪村逗留記が表装されています。宿のパンフレットからその内容を転載し、締めくくります。
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史跡臨川亭址碑
山下泰一
琴平町内町一ノ橋の西袂、橋本屋旅館前に「史跡臨川亭址」と刻んだ、高さ一三五cm・幅二四cmの角柱碑がある。俳聖蕪村ゆかりの臨川亭はこの旅館の処にあったので、昭和三十一年(一九六五)十月十日に建碑された。碑陰には故草薙金四郎先生の撰文で次の如く記されている。俳聖蕪村は宝暦明和の頃讃岐高松丸亀琴平に來遊して俳人らしい逸話と遺墨を傳えている。就中像頭山下の豪商金川屋こと菅暮牛をはじめ冬扇陸船寸木など所謂金毘羅連と詩酒追逐してこの地を永く淵叢とした。由來琴平は千古の霊域加うるにこの地の山水人情亦詩懐に適いまこと金陵楊州の雅名に負かずために文人墨客志士侠徒あとを絶たず。蕪村また屡この地に杖を留め主として菅暮牛の邸に送歳又迎年して、象の眼の笑い初めたり山桜等の名吟を吐くいはゆる彼の象山客次臨川亭揮毫は即ち此處なり。予はこの邸址の煙滅をおそれ建碑して事蹟を後昆に顕わす。
昭和三十一年十月十日
香川県立図書館長
香川県文化財専門委員
草薙金四郎 撰
象東 山野秀一 書
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