「蘇鉄図」屏風と「寒山拾得図」襖絵は、心ない者の仕業によって黒の油性フェルトペンで落書きされるという不慮の事故に見まわれたことが、昭和43年4月30日に発見された。蘇鉄図は幹や葉の中に数カ所、寒山拾得図の拾得は両目に付けまつげをしたような落書きであった。さらに寒山拾得図の寒山の顔が破損されていた。
昭和46年に国指定の重要文化財に指定された際には、この加筆を消すという条件があったが、それでも美術的文化財としての価値を損なうものではないという判断があったという。
その後、文化庁文化財保護部や国立文化財研究所において油性インクに作用する薬品(ピリジン)でインクの染み抜きが試まれたが、油性インクが紙ににじんで広がってしまってうまくいかなかった。文化庁はいろいろと手を尽くしたが、技術的に不可能ということで結果として完全な修復がなされないで絵が妙法寺に戻された。
さて、江戸時代の文人画を世界に紹介し、美術評論家で、特に蕪村の研究家でもある鈴木進氏(元文化庁の文化財調査官)が、表具師一筋50年の名古屋の整古堂・武智光春氏に油性インクの染み抜きについて相談を持ち込んだ。昭和52年のことであった。武智氏は、「墨とインクは異質のものだから必ず取れるはず」と前向きに応対され、武智氏は丸亀・妙法寺に調査に訪れたのである。
名古屋に戻った武智氏は、国立文化財研究所の研究成果をふまえながら薬品専門家の協力を得て200種類及ぶ様々な薬品を研究・実験して、最後に残ったのがHMPA(ヘキサ・メチル・ホスファルド・アミド)というものであった。これは腐臭を伴う劇薬で発ガン性もあるという。この薬品ならば墨絵自体に影響を与えず油性インクを脱色できる。これは過去に例のない世界初の技術である。200年前の間似合(まにあい)というシミの落ちにくい泥の混じった和紙がHMPAという劇薬を使用してのインク除去作業に耐えられるかが最大の問題であったが、文化庁の許可が降りて昭和57年11月に武智氏のもとに預けられた。
武智氏は、大きなガラスの円筒撹拌(かくはん)機を作り、その中にステンレスメッシュで絵を巻き込み、パイプで円筒に溶剤の薬品を送り、温度を60度に保ち、円筒を手で静かにゆっくり回転させるという工夫をされた。この回転作業を休まずに交代で行い、1枚の絵に染み抜きに50時間をかけた。最後に劇薬の溶剤HMPAを中和させて終わる。筒から取り出した絵の水気を和紙で吸い取ると、見事に油性インクの汚れは除去されていた。蘇鉄図は四曲一双であるから、8枚の絵を延べ400時間かけてクリーニングすることに成功したのである。これはまさに長年の熟練による職人技とその執念と化学処理技術が結びついて成しえた画期的修復作業といえる。
蕪村の絵はよみがえった。武智氏の熟練の技と執念で、蕪村の墨絵はそのままにマジックインクだけが除去された。蕪村の200回忌に当たる昭和58年9月に名古屋の武智氏のもとから修復された「蘇鉄図」屏風と「寒山拾得図」襖絵が妙法寺に返却されたのであった。
なお、この修復の模様は『名画復元~表具師執念の技~』というNHKのドキュメンタリー番組として1983年11月23日に放映された。番組は不可能と言われた「蘇鉄図」の修復作業に挑んだ、名古屋の表具師・武智光春さんの匠の技に迫っている。